アメハレ ー 山形県庄内在住 今野楊子の日記帖

2010年12月、1冊の本との出逢いがきっかけで、神奈川から山形に住まいを移してしまいました。日々のことを綴っていきます。

スポンサーサイト

スポンサー広告

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

▲PageTop

庄内の正しい過ごし方その3/暮らしの彩りは、野から山からとってくる。

Column

 秋に山へきのこを探しに行った時のこと。道中あけびの実を大量に採取する幸運にも恵まれていたのですが、あけびといえば実を食べるだけではなく、そのつる(蔓)をつかったかご細工なども有名です。独特の風合いと人の手からつくられる温もり感がとても素敵で、職人さんがつくるものはひとつ数万円もするほどの高値で取引されています。

 つるでかごを編む、という手しごとに憧れを抱いていることは言うまでもないと思いますが、そうなんです。

 外に出られないくらいぷっぷでゅう(吹雪いている、を庄内弁でぷっぷでゅうと言います)休日に、暖かくした部屋にこもり、せっせとつる編みを楽しむ。これぞ東北の冬って感じがしませんか。いいなぁ、東北の冬。

 と、私のささやかな妄想を現実のものとするために、今年こそつるを手に入れようと思っていたのですが、編むには冬の少し前の頃のつるがちょうど良いらしく、きのこ狩りの時には採取しませんでした。

 時期がきた頃またつる取りに出かけましょう、と約束をしていたのですが、光陰矢の如し。気がつけばはらはらと白い物が舞い降りるようになり、お山の上の方はすっかり雪化粧。

 このままあきらめて、つる編みの夢を来年へ持ち越そうか…とも考えたのですが、悪あがきをこいて半ば強引に友人をお誘いして、完全防寒で冬の山へと乗り込んできました。12月の半ばのことです。

 しかし、山の上はご覧のようなご様子。すっかり冬。おなごばかり3人で、さして車も通らないような道を進みます。しかも強気に出たわりに、私の車ったら二駆。ここで車がスタッグしたらどうしようとドキドキしながら山を登って行くと、お目当ての場所は既に冬期通行止めで通ることができませんでした。

 ここであきらめる訳にはいかない私たちはルートを変更し、目を光らせてつる性の植物を見つけることに。つるらしきのを見つけるや否や、あった!あった!と騒いで車から飛び出して、膝より積もっている雪をもろともせず、つるめがけてずんずんと前進し、それぞれの役割を察知してここぞというチームワークを発揮。初めての共同作業とは思えないほどでした。

 これはなかなかいいつるだ、しまったちょっと短かかった、つるじゃないけどこれかっこいい、なんていう会話をしながらつる取りをすすめ、それなりの量を採取して終了。大満足で山を下りました。

 さて、いきなりかご編み難易度が高いので、今回はリースをこしらえることに。実は私リースづくりも初めてだったのですが、友人お二人のおかげでこんなに可愛らしいリースができました!

 さっきまで山で雪をかぶり、ただのつるだったことが嘘のような可愛らしさ。自然のつるならではの、素朴でしなやかな雰囲気もとっても素敵です。

 浮き足立って家に帰り、さっそく殺風景だった自宅のお手洗いに飾ってみようと思いつきました。

単なるお手洗いが

こんなに華やかに。

 雑貨屋で買わなくても、有名なブランドのものでなくても、こんなに愛らしく暮らしをいろどることができるんだなぁ。自己満足と言われても、自分がそれで楽しくて満足できるのなら、こんなに幸せなことはないですね。

 リースを見るたびに、雪の中でせっせとつるを採った思い出がよみがえってうふふとなります。思い出とセットになった手づくりのものは、自然と大事にしようと思えるものですね。
スポンサーサイト

▲PageTop

庄内の正しい暮らし方その2/秋には、そのへんの川を鮭が遡るもの

Column


 日本人の食卓に、昔からとても親しみ深い鮭。子供の頃から代表的な魚として口にしていながらも、まるまる一尾の鮭の姿を見たことがなく、初めてのご対面は社会人になってからでした。

 当時担当していた取引先の販売協力で、鮭を購入することに。小分けにパッキングされた切り身が元の鮭のかたちに並べ直され、長細い箱に頭からしっぽまでどーんと納まっていた姿を目にしたとき、すごい。鮭ってこんなに大きいものだったのか。食べ切るのに何日かかるんだろう。けっこう顔が怖い。と、衝撃を受けたものでした。

 たしか1箱6,000円くらいだったと思いますが、見た目の豪華さと小分けになっている使い勝手の良さから、お歳暮にピッタリと人気の商品だったように記憶しています。



 鮭ってすごいなぁ、秋になると、産卵のために生まれ故郷の川を遡上するらしいけど、こんなに大きな魚が川をのぼるなんて。迫力あるだろうなぁ。どうして生まれた川がわかるんだろうなぁ。

 子供のように想像を膨らませて胸はずませる私に、

「小さい頃、近くの温海川で鮭とって遊んでたなー」

と、主人は衝撃の告白。

 「鮭で川底が見えないくらいいっぱいいたから、舟釣り用の大きな針を橋からたらすだけで簡単に釣れたんだよなー。漁師の親父からおめだち何やってんだーって追いかけられたけど、まんず怒るなー、カップラーメン食うかーとか言って、汁だけになったカップラーメン差し出してからかってたなー」。

 なんたる子供。子供の頃の話とはいえひどすぎるだろ。言葉を失う私のことはお構いなしに、鮭は3年から5年かけてオホーツク海やベーリング海を回遊して戻って来ることや、川を遡上する鮭は味が落ちるというが、それは産卵期の数ヶ月前から餌を食べなくなるためだということをすらすらと教えてくれました。

 主人の知られざる過去と知識に驚きながら、鮭の遡上が庄内では秋の日常的な光景だということを知り、重ねて驚きました。



 庄内3年目の秋、今年こそは鮭の遡上を自分の目で見たい。そう思っていたところ、遊佐町で鮭の遡上を見られるツアーを行うことを知り、参加することができました。





 生まれて初めて間近で見る、生きた鮭!つやつやの体に精力をみなぎらせて、びっちびちと飛び跳ねています。網で捕えられてもなんとか逃げ出そうとする、必死な思いが伝わってきます。言うまでもなく圧巻です。

 水揚げ後、頭を打たれて気を失った鮭はオスとメスでわけられて、メスのおなかからは卵が取り出されます。これにオスの精子をかけて受精させ、稚魚を孵化させます。こうして孵化した鮭の子供たちは、春をまって川に放流され、大きくなったら再びこの川に戻ってくることになります。単に食べるだけじゃなく、資源の保護のためにこうした取り組みが行われていることを、初めて知りました。

 もちそん、一部の卵はいくらとして販売もしています。新鮮ないくらがこんなに大量に目の前に。わざわざ北海道にいかなくったって、いくらは食べられるんですね。鮭自体は、塩漬けや寒風干しなどの加工品にまわされるそうです。







 特に印象深かったのは、腹を切られて子を取り出され、それでもなおもがくメスの鮭の姿。感情移入をしてしまってくらくらしました。ごめんなさい、と思いながら、食べることはこうして命をいただくことなんだ、目をそらしてはいけないんだと痛感しました。



 あまり、というかほとんど知られていないと思いますが、遊佐町の鮭の漁獲量は鮭の町で有名な新潟県の村上市よりも多く、年間2000万匹もの鮭の稚魚の放流を行っており、その一部が高級魚「メジカ」として北海道で水揚げをされているそうです。現在は4つの生産組合が孵化の技術を高めたり加工品などの商品開発をしながら、鮭と川資源の保護を行っています。



 鮭の遡上だけでも生き物や自然の力を大いに感じられるのに、鮭文化という庄内の新たな魅力を発見し、命の大切さにも触れさせていただけて、とても良い体験になりました。

 庄内は、自然は、ほんとうに色々なことを教えてくれます。

▲PageTop

Interviews/地方で頑張る人が繋がるアパレルショップに Fun★K 佐野圭さん

Interviews

山形県を地図でみるとちょうど人の横顔の形をしていることは、山形にゆかりのある方ならご存知ではないでしょうか。現在は酒田市に統合された旧平田町は、そんな山形県のちょうど目の位置にあることから、めんたまの町としてユニークな町おこしをしてきたことで知られています。

そんな平田で生まれ育ち、東京でアパレルショップの店員を経験したのちに妻と子供を連れてUターンをし、現在はアパレルのセレクトショップ「Fun★K」のオーナーとして活躍されている、佐野圭さん。佐野さんが地元酒田に戻られたきっかけやお店を開店された理由などをお聞きしました。



明治通りのアパレルショップで働いた20代



高校を卒業後、東京へ上京して情報処理関係の専門学校へ進んだ佐野さん。そんな佐野さんが専門学校を卒業した後に選んだ進路は、なんと渋谷にあるアパレルショップの店員でした。

 「高校生くらいの頃から洋服には憧れがあり、とても好きでした。地元では手に入らないブランドの洋服を求めて、仙台までバスで行ったこともありました。

 東京へ出るきっかけとして情報処理関係の専門学校に進みましたが、どこかの会社にシステムエンジニアとして就職して、毎日スーツを着て夜遅くまで働くのは漠然と嫌だなぁと思っていました。

 そんな時に、いつも行っていた明治通りのお店が、たまたま求人を出していたんですね。そこのオーナーはいつも格好いい服装をして、ハーレーに乗って出社するんですよ。そんな姿に憧れもあり、是非お願いしますと訪ねていったら運よく採用してもらうことができて。就職してからはお店を移り渡ることなく、約15年間そちらでお世話になりました」。

 こうしてショップの店員として働き、いつか自分のショップを開くことを視野に入れながら、佐野さんはアパレル業界のコネクションや経営の知識を身につけていきます。

 そうした中で、渋谷や原宿といった人の途絶えない華やかな場所にあっても、消えていくお店が少なくないことを目の当たりにします。

 「こんなに好立地にあっても、ダメになるお店はあるんですよね。場所が悪いとか、わかりにくいとか、そうした理由は後付けで、場所は関係ないということを実感しました。

 だからこそ、自分が生まれ育った平田でも洋服屋をやっていけるのではないかと考えるようになりましたし、続けるためにはどうしたらいいか、どんな配慮や仕掛けが必要かを、一生懸命考えるようになりました」。

 様々な下調べを行った佐野さんは、地元平田に店舗兼住居となる建物を新たに建て、2010年7月に妻と子供2人を連れてUターンします。

自分の生まれ育った酒田市平田で、2010年に店舗をオープン



 これまでの経験とコネクションを生かし、地元の平田でアパレルのセレクトショップ「FUN★K(ファン・ケイ)」をオープンさせた佐野さん。ロッジ風のおしゃれな外観の建物と車庫におさめられた黒いアメ車は、通りを走る車の中からでも目を惹きます。

 「2010年にお店をオープンさせたのですが、随分前から夏休みに実家に戻ってきたときなどに、商圏をリサーチしたり、友人知人にヒアリングをしたりということをしていました。調べたり聞いたりしてわかりましたが、欲しいブランドの服を求めて都会へ買い物に行かれている人は、少なくないんですね。

 でも、地元にはないという先入観が強くて、そもそも地元は見ていない。自分自身の若い頃を考えてみても、同じように地元にはない、と思い込んでいました。でも実際に外へ買いにいっているということは、需要はあるということですよね。

 そして実は、鶴岡や酒田にも相当昔から東京のブランドを持ってきてやっている、先駆的なお店が存在することもわかりました。こうした場所でもやっている方もいるんだと勉強になりましたし、可能性を感じました」。

 こうしてちゃくちゃくとお店を開くための準備を進めていく佐野さん。自分のこだわりの雰囲気を出せる物件は探しても出てこないだろうと考えて、店舗兼住宅となる建物を新たに建築します。

 「ネットで簡単にモノが買える時代だからこそ、このお店で買う付加価値というものが大切になってきます。空間や雰囲気もそのひとつですよね。だからこそ妥協はできなかったというか。

 そしてこんな時代だからこそ、顔と顔を付け合せて、自分という人間をわかってもらって商売をすることが、大切だと思っています。それには自分が生まれ育ったここ平田でお店をやることは、得なことだと感じます。商売は地域に根ざしていないとダメだと思いますし、地方の方であればあるほど、どこの誰がやっているのか、ということが重要ですよね。佐野の息子がやってる店らしいぞ、と聞くと、地元の方も安心感があるでしょうし」。

 そこにここじゃなきゃいけなかった理由がありました、と語る佐野さん。現在は地元の商工会にも所属して、地元の方々と関係を深めながら地域の活動にも積極的に参加しています。

アパレルショップ×コーヒーという、意外な組み合わせがキーに



実はFUN★Kさんの吹き抜けになっている2階は、喫茶店が営業できるよう許可をとっており、現在はコーヒーを楽しめる空間になっています。

「最初はお店の前にたむろしてほしくないという思いがあって、2階にゆっくりできるスペースを確保したのですが、思いつきで提供を始めたコーヒーが今では大事なツールになっています」。

やるからには中途半端なことはしたくなかったと語る佐野さん。コーヒーの豆は千葉の有名な焙煎屋さんなどから取り寄せて、美味しく入れられるよう勉強もしています。

「服屋さんってどこもそうだと思うんですけど、なかなか入りづらいところがありますよね。入ってみたいけど、買わないと悪いと思ってしまう、といいますか。だから、ちょっとコーヒーを飲みに入ってこれる気軽さは、足を踏み入れるきっかけにもなるし、良い意味でお客さんに逃げ道をつくってあげることになっていると思います」。

コーヒーを楽しむ客さんとゆっくり会話ができることは、佐野さんにとってもありがたいことだと言います。お店の中にできるだけ長く滞在してもらい、自分という人間の考えや想いを知ってもらい、人間関係を築きながら商売につなげていきたい。そうすることで、細くても長い付き合いができると考えているそうです。



庄内の中心に位置する平田で、地方の暮らしを応援していきたい



 ショップオーナーという顔を持つ一方で、「ヒルクライム東北」というバイクのイベントを主催している佐野さん。

 ヒルクライム東北とは酒田市の松山スキー場でシーズンオフに開催されるイベントで、参加者が各々の自慢のバイクで一気に丘を駆け上がり、到着タイムを競う競技です。2014年で4回目となるイベントで、山形県のみならず東北一円から人が集まり大きな賑わいを見せています。

 「大小さまざまなバイクが参加してくれているのですが、エンジンの爆音を響かせて丘を駆け上がる姿は、とても迫力があります。バイクを知らない人でも見ていて楽しめるイベントで、嬉しいことに競技の参加者だけでなく、ギャラリーの方もたくさん集まってくれています。

 開催のきっかけは、自分がバイクが好きだったからというのもありますが、県外から人を呼んで庄内という場所を知ってもらうきっかけになればと思ったことと、大人たちが遊んでいる姿を地元の若い子に見て欲しいと思ったこと。地元でもこんな風に遊べるんだぜ、外へ出て遊ぼうぜ、ということを、自分の身をもって伝えていきたいです」。

 ご自身も20歳のときに買った愛車1963年製のハーレーをお持ちの佐野さんですが、主催者としての役割が忙しく、レースにはまだ参加ができていないそうです。それでも楽しそうに語ってくださる姿からは、多くの方に庄内の良さを伝えたい、若い子たちに楽しみ方を教えてあげたいという純粋な思いが伝わってきます。

「ショップ名であるFUN★KのサブタイトルをSupport Your Local Life Styleとしているのですが、単に洋服だけを売るのではなくて、地方での生活を楽しむためのお手伝いをしていきたいという思いを込めています。

 だから同じようにUターンをした人たちと地元を盛り上げるようなことをしていきたいし、移住を検討している方にアドバイスができることもあると思います。他にも、たとえばお店を開きたいと思っている人に自分の経験が役に立てるようであれば、是非応援したいと思っています。色々な人が繋がって、地元を元気にしていくような場所をつくりあげていきたいです」。

 まだまだやってみたいことがたくさんありながら、毎日10時から22時まで営業しているお店とイベントの企画などで、日々忙しくしている佐野さん。広い庄内地方の真ん中に位置する場所として、庄内の人々が交流していく中心地になるといいなぁと思いながらお店を後にしました。

▲PageTop

庄内正しい過ごし方その1/きのこは山からとってくるもの

Column

 庄内に来てからもうすぐ丸3年が経ちます。ついては季節の移ろいを3回経験したことになりますが、その中でもそわそわと夫が落ち着かなくなる時期というものがあり、ちょっと姿を消したと思ったらお山に入っていたりする(なぜかこっそり行きたがる)、それが春と秋の頃です。

 Uターン後、某有名イタリアンレストランで食材担当をしていた夫。庄内ではいつの頃に何が旬を迎えるかということを知り尽くし、自ら採集してくることも業務の一部だったために、食材に大変詳しくなりました。

 もとより幼少期からかなり釣りに親しんでおり、魚介についてはなんでそんなこと知っているのと驚嘆するくらいの知識(私が知らなすぎるということもありますが)を有していた夫。都会ではさして披露する機会がなかったのか、はたまた隠していたのか、庄内に来てから魚について雄弁に語るようになり、随所随所で歩く魚図鑑的な役割を果たしてくれています。それに加えて山や野の食べ物についての知識も体得したのですから、真にあっぱれですね。

 そんな彼も少し不得手とするのが、毎年食中毒者が発生して世間を騒がせる、きのこ。見た目での判断がとても難しいきのこは、山で見かけても容易に手を出すことができません。加えて春に採れる山菜にも言えることですが、山には所有権がありますので、見つけたからといってそれを勝手に持ち帰ることも出来ません。

 だからこそ憧れる、きのこ狩り。どなたかきのこ狩りに連れて行ってくれるきのこ狩人はいないものかと思っていたら、以前ヤマガタ未来ラボで取材をさせていただいたさくらんぼ農家でデザイナーの宮城妙さん(https://mirailab.info/archives/4499/)からお誘いを頂き、10月某日、きのこ狩りに行ってきました!

 仕事があり参加できず、涙を呑んで見送る夫。自分ばかりごめんねと言いながら、満面の笑みで地に足がつかない様子の私。



 当日は午後13時に集合し、いざ山へ。案内してくださったのは、妙さんのお父さんときのこに詳しい友人のおじさん。ぐいぐいとじゃり道を進んで行く軽トラを追うのは、妙さんご夫妻と私が乗ったワーゲン。鬱蒼とした山を駆けていく軽トラとワーゲンという組み合わせはなかなかないよなぁ、とひとりでこの境遇に胸を躍らせます。

 途中でアケビの実を発見して採集したりしながら、約30分で木々がうっそうと繁るきのこポイントに到着。



 この日の天気は曇りのち雨だったので、本格的に降り出す前に採集を終えようと、みな奮い立って山へ。腰に胴袋(どうふ)を巻き付けて散り散りに山に入りました。

 玄人チーム(妙さん父とご友人のおじさん)の身のこなしたるや俊敏かつ軽やかで、少し目を離した隙にもうあんなにも遠くへ!と驚いたのも束の間。すぐに姿が見えなくなり、素人の私たちはせっせと身の回りのきのこを集めます。

 最初は小さなきのこを見つけただけでわーわー騒いで採っていたけれど、大きいものや旨そうな獲物を見つけることができるようになると、小さなきのこを見つけても「あれはダメだな」と相手にしなくなるから人って勝手ですね。

 そうこうしているうちに雨が降り出して、そろそろ退散かと思い始めた頃、妙さんのお父さんの姿が見えません。結構奥まで行ったのかなぁと思い、「おとうさーん」、「おーい、そろそろ帰るぞ〜」と叫んでいたところ、思わぬ方角から返事が。なんと妙さん父、既に軽トラで帰り支度を整えているではないですか。

 いつの間に…!「おめがた(お前たち)そろそろ帰るぞー」と、何くわぬ顔で仰るお父さん、恐るべし。

 帰り道、庄内の伝統食のひとつである納豆汁に入れるきのこ「もだし」を少しだけ見つけて採集。

 里に戻り、妙さんのお母さんから保存方法も教えていただきました。たくさん採れる旬の食材は、保存方法とセットで身につける必要があります。自宅で実ったいちじくもご馳走になり、大満足で帰宅。

 夫にあけびと山のようなきのこを誇らしげに披露し、きのこはけんちんや素焼きにして頂きました。やっぱりおすすめのけんちんが一番美味しかったです。美味しすぎて瞬殺したため、写真がなくて申し訳ないです。

 きのこ、また来年も狩りに出かけたいと思います。今度は夫も一緒に。

▲PageTop

Interviews/鳥海山と庄内平野を面前に、身体と食のつながりを伝えたい 平野加代子さん

Interviews



 出羽富士と呼ばれ、東北の名峰として多くの人を惹きつけてやまない鳥海山。7月1日の山開きから秋までの期間に多くの登山客で賑わう庄内有数の名所ですが、その山頂を有するのが秋田県との県境に位置する湧水の町、遊佐町です。

遊佐町は人口1万5千人ほどの小さな町ですが、鳥海山とその裾野に広がる庄内平野、そして山からの雪解け水を運ぶ河川やそれらが流れ込む庄内浜など、その自然環境は全国的に見ても他にほとんど類を見ないほど豊かです。こうした環境が気に入って都会から移り住んだ方々が、お洒落なカフェやパン屋さんを開いていることでも知られています。

そんな遊佐町で、自然食(マクロビオティック)と自然エネルギーをテーマにしたカフェ「家カフェBio」をオープンさせた、酒田市出身の平野加代子さん(49)。平野さんは趣味の料理を深めるうちにマクロビオティックと出逢い、東京で勉強を重ねてマクロビオティックアドバイザーを取得。2010年頃から地元で料理教室などを開催していましたが、2013年10月ご主人の後押しがあって、遊佐町の藤井地区の一軒家を改装した料理教室兼カフェを開業されました。



酒田市で生まれ育ち、趣味の料理でマクロビオティックと出逢う



遊佐町の南に接する酒田市の、酒田駅にほど近い町中で生まれ育った平野さん。平野さんは高校までを同市で過ごし、短大進学と同時に上京して幼児教育を専攻します。短大を卒業すると地元酒田へ戻り、姉からの誘いで医療事務の仕事に就職しました。

「幼稚園の先生になりたいという夢があり、保育科に進みました。東京の短大を選んだのは特に地元を離れたかったからではなく、ここでいいかな、という軽い気持ちでしたね。東京に行ってからもそこで暮らす気にはなれなくて、実家が恋しかったですね。卒業するとすぐに地元酒田へ戻りました」。

明確な理由はありませんが、東京は遊びにいくところで、住むところではないなぁと感じたそうです。地元に帰ってからは夢だった保育園の先生にはならず、誘われるままに歯科医院に就職して医療事務の仕事に従事されました。

その一方で、幼い頃からとにかく料理をすることが好きだったという平野さん。結婚して旦那さんの実家へ入ってからもその情熱は衰えることはなく、子供が生まれてからは出来る限り手作りのものを食べさせてあげたいという想いから、さらに拍車がかかります。

「ご飯の支度をしている最中に食材を見つけて、あ、これも作れるな、あれも作ろう、と思いついてしまうんですね。それでどんどん品数が増えてしまい、ちょっと作りすぎなんじゃないの、と笑われたこともありました(笑)。台所で一日過ごしてもまったく苦にならないほど、料理は好きですね。

料理の本を眺めることも大好きで、たまたま写真や内容が気に入って購読していた本がマクロビオティックに関するものだったことや、ちょうどヨガなどの菜食文化が日本に紹介されはじめたことなどから、次第に食事と身体との関わりへ関心を強めていきました。

同じ頃、夫の栄養管理が気になってきて、週末だけの野菜ダイエットを始めてみようと思いつきました。私も付き合ってやってみたら、意外とつらくなくて。それどころか身体が楽になってきたように感じました。これなら続けられるかも、と思って本格的にマクロビを学び始めました」。

 マクロビオティックとは、穀物や野菜、海藻などを中心とする日本の伝統食をベースとした食事を摂りながら、健康な暮らしを実現しようという日本発祥の考え方。その原則には身土不二と一物全体という2つの考えがあります。身土不二とは、人間も植物も生まれた環境と一体であり、暮らしている土地の旬のものを食べることで身体のバランスが取れるという考え方で、一物全体とは例えば米であれば玄米のまま、野菜であれば皮ごとなど、自然の恵みを残さずまるごと頂くことで、同じく身体のバランスがとれるというものです。日本国内以上に世界的から注目を集めている食事法として、ご存知の方も多いでしょう。



食べ物と身体の深い関わりを、伝えていきたい



マクロビを本格的に学び始めた平野さんが最初に痛感したのは、「私たちは、自分が食べたもので出来ています」という先生の言葉だったそうです。

「考えてみれば当たり前ですが、あぁ本当にそうだなぁと。私も忙しいときにはコンビニへ走って適当な食事をとっていたこともありましたが、そうした過去の食生活をすごく反省しました。

戦後の日本は栄養的にはとても豊かになったけれど、一方ですごく病気が増えましたよね。肥満や糖尿病などの生活習慣病やガンを始め、食べて病気になっていると言うか。その背景には、農薬や化学合成物の摂取や、これまで日本の食文化にはなかった牛乳やパンなどを、食べざるをえない事情があっただろうということも学びました。スペイン人の先生によると、日本ほど食文化ががらりと変わってしまった国も珍しいそうです。

東京の学校へ通ってマクロビを学んでいたのですが、そういうところに学びにくる東京の方は、すごく意識が高いんですね。自分が口にするものがどういう環境で育てられたものか、無農薬か無化学肥料か、加工品なら化合物は入っていないかなど、とても注意を払っています。

ところが田舎では、そこまで関心の高い方はまだまだ少ないことも事実です。結果として、地元で作られた有機栽培の野菜は都会へ流れてしまって、ここで暮らす私たちは、農薬がかかっているかもしれない野菜を気にすることなく食べています。

これはすごくもったいないことだなぁ、と思いました。ここで暮らす方がちゃんと有機栽培の作物の価値を知って農家さんを支えることができれば、有機で作物をつくる農家さんも増えるでしょうし、ここで育てられたものをここの人たちが食べることができますよね。そのために、自分が学んだことを役立てることができたらと思い、3年前くらいからマクロビの料理教室をはじめました」。

 Facebookなどを中心に呼びかけて開催している平野さんの料理教室には、酒田市だけでなく近隣市町村からも参加者が訪れて、食や健康について学びながら楽しく受講しています。



自然食と自然エネルギーをテーマにした「家カフェBio」をオープン



今年10月に、遊佐町の研修施設だった建物を改装してマクロビの料理教室兼カフェを始めることになった平野さん。そのきっかけは、景色のいいところで料理教室をやってみたらいいんじゃないか、とご主人が提案してくれたことだったそうです。

以前からその景色の美しさがとても気に入って、度々足を運んでいた遊佐町の藤井地区で絶好の物件が見つかると、一気に話が進み、ご主人が興味を持っていた太陽光パネルや薪ストーブなどの自然エネルギーなどもコンセプトに取り入れた店舗が完成します。

「あれよあれよという間に話が進んでしまって、自分自身も驚いています。お店を始めることは考えていたわけではないのですが、周囲に押されるようにしてやってみることになりました。ここではマクロビを基本とした自然食をテーマにしてはいますが、厳格なマクロビカフェにするつもりはあまりないんです。出来る限りこの土地で育てられた有機栽培のものを使いたいと思っていますが、手に入らないものもありますし、ゆる~い雰囲気でやっていけたらと思っています。

お店はすべて一人で切り盛りしていきますので、お客様をお待たせしてしまうこともあると思いますが、この景色と時間を、ゆったりと楽しみに来て欲しいです。そういう意味では、急いでいらっしゃる方にはご迷惑をおかけしてしまう可能性もありますので、他のお店をお勧めします(笑)」。

わがままなお店ですみません、と言って頭を下げる平野さん。でも、お店のコンセプトとしてはとても素敵だと思います。店主自身がリラックスしながらおもてなしをしてくださると、嬉しいと感じるお客さんもいます。そんなお客さんが集う場所に、なっていくのではないでしょうか。

ただ食べるだけの場所ではなく、情報を発信していく場所へ



 お店はまだ、オープンしたばかり。準備や対応にまだまだ忙しい毎日を過ごしていらっしゃる平野さんですが、早く自分のペースを掴み、ここでの時間を楽しんでいきたいと語ります。

「様々な不安もありますが、ここに立たせてくれた夫に感謝しています。ここにいると、生きている、ではなくて、生かされているなぁと感じます。目の前に広がる美しい景色は何ひとつ昨日と同じものがなくて、田んぼや山の色が、季節とともに日々移ろいでいきます。私は自然の中にいて、生かされている。そんな実感があります。

そしてよく、ここからほど近い八幡の山の中にあった、母の実家で過ごした幼い頃の時間がふっと蘇ることがあります。夜になると空に星がうるさいくらい瞬いていたことや、家の傍を流れる川が、手を入れていられないほど冷たかったこと。そしてそれを口に含んでみると、すごく甘かったこと。車のドアを開けた瞬間に包まれる匂いが、とても好きだったことなど。

そうした時間を大切にしながら、やってきけたらいいなぁと思っています。そしてここを訪れる方々には手仕事やワークショップの会場としても活用していただくなど、ただ食べるだけの場所ではなくて、情報を発信していく場所に育てていけたらいいなぁと思っています」。

お話を伺っている間も、お店の中を案内してくだっている間も、平野さんの柔らかで飾らない雰囲気とこの空間がとても合っていることに心を打たれてしまいました。この空間にいらっしゃることが、なんてぴったりな方なんだろう。よく晴れた秋晴れの日に、また平野さんに会いに行きたいなぁと思いながらお店を後にしました。


▲PageTop

Interviews/庄内で美味しいお菓子をつくっていきたい みのりや 福田幸司さん

Interviews


 山形県の庄内地方はその土地柄や歴史的背景から、古くから農村に伝わる笹巻きや栃餅などの田舎菓子、北前舟によって運ばれた雛菓子などの京菓子、江戸から城下町へ伝えられた駄菓子などの文化が複雑に絡み合い、全国的に見ても独特なお菓子文化を築き上げてきました。

 また、四季を通して豊かな食材を育む地の利を生かし、菓匠たちは各々の技と工夫を凝らしたお菓子を数多く生み出してきました。今でも町には大小さまざまなお菓子屋さんが存在し、人々の暮らしにささやかな幸せを与えてくれています。

 鶴岡市宝田に本社を構える「みのりや(有限会社 達商)」も、そんなお菓子屋さんのひとつです。創業は1985年と比較的若い企業ですが、この土地ならではの食材にこだわった美味しいお菓子をお届けしようと日々研究を重ねています。

 そんなみのりやで現在洋菓子工場長を任されている、福田幸司さん(29)。福田さんは青森県と岩手県の県境に位置する三戸町で生まれ、高校を卒業後、パティシエになることを決意して上京。製菓の専門学校を経て東京のホテルニューオータニへ入社し、約8年間の勤務の後に妻の実家がある酒田市へ移住しました。現在はみのりや(有限会社 達商)の洋菓子工場長として、鶴岡市内の店舗で販売する洋菓子の製造と、同社が力を入れているお土産菓子の商品開発に奮闘されています。


料理人を志していた少年時代から、パティシエへ



 岩手県との県境に接する青森県の三戸町(さんのへまち)で、家のすぐ傍を川が流れるような豊かな自然環境で育った福田さん。両親はともに学校関係の仕事に就いていましたが、幼い頃から料理をすることがとても好きだったそうです。

 「中学を卒業したら高校には進まずに、料理人になりたいと思っていました。それくらい料理が好きで、早くから働きたいと思っていたんですね。でも、高校関係の仕事をしていた両親からさすがに反対されて、それで仕方なく高校へと進学しました。

 料理が好きになったのは、父の影響も大きかったと思います。父は何でも自分で作ってみようとする人で、自宅で豆腐をつくったり、蕎麦を打ったりしていました。そんな父の姿を見て、『作る』ということに強い関心が向いていったんだと思います」。

 また、祖父が過去に和菓子店を営んでいたことも、少なからず影響していたのだろうと振り返る福田さん。物心がついた頃には既にお店はありませんでしたが、倉庫にしまわれた木枠や型などの祖父が遺した菓子道具を、わくわくしながら触れたり眺めたりした思い出を語ってくださいました。

 そんな福田さんが料理人ではなくパティシエを目指すことになるのには、どんなきっかけがあったのでしょうか。

 「料理人になりたいと思っていた自分の目標が変わったのは、高校生の頃でした。ある時、一番の料理人というのは、母親なのではないかと気がついた瞬間がありました。毎日毎日家族のことを思って料理をつくる母、ずっと食べてきた母の味には、自分の料理はきっと敵わないだろうなと思ったんです。

 それでパティシエを目指すことになるんですが、料理は素材が作り出す味で素材のウェイトが一番大きいと思うんですが、お菓子は小麦粉や砂糖、卵、クリームなど、材料がほとんど決まっていますよね。決められた素材に技術を加えて様々なお菓子を作り出す、その可能性や幅広さにとても惹かれました」。

 なるほどとても共感してしまいます。小麦粉と砂糖と卵から、こんなに可愛らしくて美味しくて、幸せになれるものができるなんて、まるで魔法のよう — お菓子が好きな女性なら、一度はそう感じたことがあるのではないでしょうか。

 こうして福田さんはパティシエになることを決意して、東京にある製菓の専門学校へと進学します。


ホテルニューオータニへ入社し、パティシエとしての修行を重ねる



 専門学校で洋菓子を中心に和菓子や製パンなどを学んだ福田さんは、学校を卒業すると日本を代表する老舗ホテル・ホテルニューオータニへと就職します。

 最初の2年間は結婚式などの宴会でデザートを盛り付ける仕事を担当し、その後はオーブンでケーキを焼く仕事、クリームなどでケーキを仕上げる仕事など、細かく分けられた部門を約2年ごとに経験し、確実に技術を習得していきます。

 「一般的にお菓子の専門学校を卒業すると、ホテルへ就職するか、町のお菓子屋さんへ就職するかのどちらかを選択することが多いと思います。自分の場合はホテルを選びましたが、ホテルへ進んで良かったと思っています。技術的な面もそうですが、40名近い先輩や後輩に囲まれての仕事はとても勉強になりました。考え方や価値観の異なる人々がいる中で、人間関係を築きながら仕事を行うことの難しさや大切さを学ぶことができました」。

 また、ホテルニューオータニで味の責任者として総料理長を務め、パティシエ界でも名高い中島眞介シェフの下で働いたことも、厳しい環境の中で切磋琢磨する福田さんの支えになりました。もっと技術を身につけたいと先を急いだり、現状に不満を持ったりすることもあったそうですが、大先輩である中島シェフは8年間も洗い場しか担当させてもらえなかった話などを思い出して、目の前のことに精一杯取り組んだと言います。

 一方で私生活では、専門学生時代に出会った同じくパティシエの奥さんと21歳の時に結婚。2年後にはお子さんを授かるなど、順調に温かな家庭を築いていきます。


妻の実家がある酒田市へ移住し、パティシエとして第二のステップへと進む



 そんな福田さんに転機が訪れたのは、ホテルへの勤務から約8年が経過した頃でした。近い将来に九州へ転勤となる可能性が浮上したことから、妻の実家のある山形県酒田市へ移住することを検討するようになります。

 「早くに子供ができてしまって、妻にはパティシエとしての仕事を辞めて育児に専念してもらわざるを得なかったこともあり、ずっと申し訳なく思っていました。さらに転勤の話が出た頃、妻のお腹に2人目の命を授かっていたこともあり、彼女の親元で両親の助けを借りながら、子育てと仕事を両立した暮らし方を考えるようになりました」。

 そして2011年の秋、福田さんは家族とともに酒田市へと移住します。これまで東京でパティシエとして働いてきた経歴が生きて、就職先もすぐに見つかりました。そして移住から1年が立った頃に、運命的な出逢いがあります。

 「事情があって転職を考えていた頃、みのりやで洋菓子のできる人材を探しているから会ってみてほしいというお話を頂きました。色々と考えていたこともあったので、お断りをするつもりでみのりやを経営する(有)達商の阿達社長を訪ねました。そのはずだったのに、帰る頃には絶対にこの会社で働こうと思っていたんですよ(笑)。

 社長のお話を聞いて、社長の人柄に惚れ込んでしまっていたんですね。良いお菓子をつくって、みんなに食べさせたいという純粋な思いが伝わってきました。社長は菓子職人ではないのですが、職人の気持ちを持っている人だと感じました」。

 福田さんの心を動かした、阿達社長との出逢い。この出逢いに導かれるように2012年9月、福田さんはみのりやへと仕事の場を移しました。



☆鶴岡市美咲町・主婦の店パル店にあるみのりやの店舗。10月5日に「La Patisserie Minoriya(ラ パティスリー ミノリヤ)」として、改装オープン予定。

夢はみのりやの看板洋菓子を生み出すことと、妻と二人でお店を持つこと



 現在はみのりやの洋菓子工場長を務め、鶴岡市内に3店舗あるお店で販売する生菓子の製造や、お土産菓子の商品開発に奮闘する福田さん。専門学校を卒業したばかりの若いスタッフも多い職場なので、後輩のパティシエを育てることも大事な仕事です。その仕事は予想していたとおりとても幅広く、毎日が勉強だと言います。

 「今までずっとホテル畑を歩んできたので、環境の異なるみのりやでの仕事は困難なことも多いだろうという心構えはありました。

 ホテルでの仕事では、決められたお菓子を正確かつ完璧に仕上げることが求められていました。しかしここでは、鶴岡市内の店舗で販売する生ケーキを作る他に、観光地用のお土産菓子を開発することも重要な仕事です。お客様はどんな商品を求めているのかを考えたり、アイディアを出して創作したりというのはこれまでにない仕事でした。お土産菓子では生のものが使えないなど材料に制約があったり、持ち運びや保存が効くような配慮も必要です。これまでの経験を活かしながら、新しい技や知識を身につけて挑戦している最中です」。

 だだちゃ豆やつや姫の米粉など、地元の素材にこだわったお菓子作りをしているみのりやさん。素材にも手を抜かず、例えば卵は抗生物質などを与えず広大な敷地で育てられた「わんぱく農場(鶴岡市羽黒町)」のものを使用するなど徹底しています。夏の時期の店舗には、庄内砂丘のメロンや松ヶ岡の桃などを使用した、目にも鮮やかなケーキがずらりと並んでいました。

 最後に、福田さんの夢をお聞きしました。

 「これまでみのりやでは、和菓子では厚生労働大臣賞を受賞した『うす皮だだちゃ豆饅頭』や、『だだちゃ豆福』などの人気商品を世に送り出していますが、洋菓子ではまだ大きなヒット商品を生み出せていません。自分の専門である洋菓子の分野で、みのりやの看板となるような商品を開発することが目標です。

 そしてさらに将来的には、パティシエでもある妻と一緒にお店を構えたいと考えています。まだ先のことで具体的なイメージはこれからですが、庄内は食材がとても豊かなところなのでそれを活かしたお店にできたらいいなぁと構想しています」。



 目下、主婦の店・PAL店(鶴岡市美咲町3-13)の中にある店舗の改装オープンに向けて大忙しの福田さん。

 お店は10月5日改装オープン予定。洋菓子に力を入れた新しいみのりや「La Patisserie Minoriya(ラ パティスリー ミノリヤ)」を訪れて、福田さんとスタッフたちが作った輝くようなお菓子たちに、是非触れてみてください。

▲PageTop

Interviews/豊かな海洋資源を誇る漁村・鼠ケ関出身。土地の人や移住者などを繋ぎ、地域を元気にしたい 五十嵐 一彦さん

Interviews


 山形県の日本海側に面する庄内地方。海洋資源の豊かな庄内沖には暖流系と寒流系の魚が入り混じって回遊し、年間を通して約200種類にも及ぶ魚介類が水揚げされています。

 県が保有する鶴岡市から遊佐町までの南北135.4kmに及ぶ海岸線には14つの漁港がありますが、港としての役割や漁法、輸送保管方法などに違いがあり、それぞれの地域ごとの特色があります。

 中でも底曳き網漁で県内随一の水揚げ高を誇り、イカ祭りや漁船クルージング、とれたてお魚夕市などのイベントを年間通して企画したりと、とにかく元気なイメージが強いのが、新潟県との県境に位置する鼠ヶ関漁港。

 そんな鼠ヶ関に生まれ、庄内浜のすぐ傍で海の恵みを実感しながら育った五十嵐一彦さん。一彦さんは地元の高校を卒業後、プロのミュージシャンを目指して上京するも、夢をあきらめて地元で就職。その後突然襲われた病気のため退職し、2年間の闘病生活を経て実家の米穀店を継ぎました。

 地元の様々な役職を引き受けるうちに地域活動へ対する意識が変わり、地域の活性化や人材育成へ積極的に取り組むようになります。今では出羽商工会鼠ヶ関地区長やあつみ観光協会監事などの多くの役職を担い、地元鼠ヶ関だけでなく庄内の様々な地域活動に参加しています。



地元を離れ、プロのギタリストを夢見た青春時代



 新潟県との県境に位置する港町、鼠ヶ関に生まれた一彦さん。地元の小・中学校を卒業し、鶴岡市内の商業高校へ進学します。

 現在の穏やかな外見と柔らかな物腰に反し、高校時代はなかなかの不良息子だったそう。家族や地域の繋がりが煩わしく、就職でも何でもいいからとにかく早く地元を出たいと思っていたそうです。

 そしてこの頃から、プロのミュージシャンになることを夢見るようになります。都会と違い音楽に触れる機会がそう多くない環境の中で、一彦さんが音楽に目覚めるのにはどのようなきっかけがあったのでしょうか。

 「中学生の頃、受験勉強をしながら聴いていたラジオから流れてきた音楽に、衝撃を受けました。当時フォークが全盛期の頃だったんですが、こんな格好いい音楽があるもんだと驚いて、一気に惹き込まれました。

 それからどうしてもギターが弾けるようになりたくて、最初にウクレレを買ってもらいました。高校へ進学後、貯めたお金で先輩から中古のギターを安く譲ってもらい、夢中になって練習しました。進学した千葉の大学では、音楽サークルに入って音楽三昧の日々でした。この頃はクロスオーバーとかフュージョンとかに傾倒していましたね。

 プロのミュージシャンに憧れて必死になって夢を追いかける一方で、厳しい現実も目の当たりにしました。Jazzのギタリストでものすごく上手な先輩がいたんですが、そんな人でも演歌のバックバンドをしてなんとか食べているんですね。これでやっていくのは厳しいなぁと、正直感じました。本気でプロを目指さないかと誘われたこともあったんですが、結局は断ってしまいました」。

 そこで根性出して踏ん張っていれば、また違ったのかもしれねんどものぉ。そう言って笑う一彦さんですが、当時を振り返る表情はとても生き生きとしていて、充実した青春の日々が伝わってきます。





地元で就職するも、思いがけない闘病と克服、そして結婚



 大学が卒業間近となっても特に就職活動をしていたわけでない一彦さんは、地元企業の熱心なスカウトに半ば流されるようにして庄内へ戻り、自動車の営業職に就きます。その後何度か職を変えた後、知人からの誘いもあって実家から近い旧温海町の商工会の職員となりました。

 タイミング良く就くことのできた商工会の仕事でしたが、約5年の勤務の後、突然大病に見舞われます。一彦さんは治療に専念するために商工会を退職。約2年間の闘病生活で病気を克服し、その後は実家の米穀店を継ぎながら社会復帰をしていくことになります。

 「ある日献血をしたら、すぐに精密検査をしてくださいと言われてしまいました。自分では特に自覚症状もなく何ともないと思っていたのですが、病院で検査をしたら肝臓の病気であることがわかり、すぐに入院したんですね。それから入退院を繰り返すようになり、本当に体調も悪くなってきてしまい、迷惑をかけないためにも商工会を退職しました」。

 最初の病院では一生付き合わなければならない病気だと言われますが、別の病院へ移って診てもらったところ専門的な治療を受ければ治ることがわかり、約2年の闘病生を経て病気を克服します。

 病に打ち勝った一彦さんは実家の米穀店を継ぐことになりますが、それからすぐに今度は母親が病気をしてしまいます。これがきっかけで、一彦さんは結婚を意識するようになったそうです。

 「何も意味はないんですが、自分は27歳で結婚すると思っていたんです(笑)。でも27歳のときに病気をしてしまったので、結婚に対して消極的になっていました。ところが今度は母が病気になり、これは生きているうちに安心させてあげないといけない、という気持ちになりました。

 そんな風に考えているうちに、当時新潟県の隣町にある喫茶店のマスターとバンドを組んでいたんですが、マスターから誘われて鶴岡のJazzライブを観にいったんです。そこで妻となるさつきと出逢い、周りからのお節介もあって、結婚することができました。新婚旅行には日本人があまり行かなそうなところを選んで、大好きなボブ・マーリーの生まれたジャマイカへ行きましたね(笑)」。

 病気を見事に克服し、最良のパートナーも得ることができた一彦さん。その後は2人のお子さんも授かっています。こうしたご自身の経験もあり、現在では婚活の支援にも取り組んでいます。



やむなく引き受けた役職から、地域活動の楽しさを知る



 実家の米穀店を継ぎ、子どもが大きくなるにつれて地域活動へ参加する機会も増えていきました。しかし、最初はそうした場が決して得意なほうではなく、地域の飲み会などを苦痛に思ったこともあったそうです。

 一彦さんの意識が変わるきっかけとなったのは、保育園の保護者会の会長を引き受けたことでした。

 「ある時ひとつ上の先輩から、保護者会の会長の役を引き受けてほしいと頼まれたんですね。面倒だし、自分では絶対に無理だと言って断わったんですが、それから1週間、その先輩が毎日毎日うちへ通ってきて、絶対お前しかいないから、頼む、と言うんです。さすがに断りきれなくて、最終的に引き受けることにしました。できるかどうかわからないけれど、まずやってみよう、と。

 それから保育園の行事へ自分が「長」として参加しなくてはならないとなると、全然意識が違うんですね。色々なことも見えてきます。自分ひとりでは何もできないし、他の保護者たちにお願いしなくてはならないこともたくさんあります。自分が一生懸命にならないと、周りの人もついてきてくれません。

 でも自分が一生懸命になって声をかけると、参加してくれるんですよね。そうやって結果が見えることがとても嬉しく思いました。

 そうしているうちに、反省会などの飲み会をすごく楽しく感じるようになりました。みんなもイヤイヤやっていたように見えて、とても楽しんでいて。参加するのを面倒くさがる人もたくさんいるけど、結果的に人が集まってみんなで盛り上がると、最高に楽しいんですよね」。

 その後も小学校や中学校のPTA会長、あつみ観光協会の監事、鼠ヶ関地域協議会・蓬莱塾の事務局長、念珠関辨天太鼓創成会の代表など、数々の役職を引き受けます。そうした中で地域の活性化や人材育成などにも積極的に取り組んで、漁師を始め地域住民との絆を深めていきます。

 みんなで集まって、一緒になって盛り上がろうぜ。その根源には、音楽で人を楽しませてきた一彦さんならではの地域への愛情があるように感じます。



地元にあるものの価値を理解して、人を「繋ぐ」役割を果たす



 そんな一彦さんがさらなる刺激を受けることになったのは、他所から来た移住者たちとの出逢いでした。

 「ここ数年、他所からほとんど縁のない庄内へ移住してきて、地域のために力を尽くそうと取り組む方にたくさん出逢いました。

 Facebookという新しいSNSを活用して、地域を活性化させようとか。庄内の豊かな自然資源を活用して、自然エネルギーの新しい産業を興そうとか。出羽三山の山伏や精進料理の文化の素晴らしさを、改めて伝えていこうとか。

 特に東京の有名な企業を辞めてまで移住して、一生懸命に地域活性化へ取り組んでいる方を見て、こんな人がいるのかと驚きました。小説にできるんじゃないかと思うくらいです。

 そういう人たちを見ていると、ここで生まれ育った自分も頑張らなくちゃと思います。当たり前のようにそこにあるものの価値をしっかりと理解して、活かしていきたい。過疎化や少子高齢化を嘆いて不満を言うのではなくて、課題を受け止めて取り組んでいきたいです。

 特に私が暮らす鼠ヶ関は、海があり、山・川・里もあり。自然は豊かで美味しいものがたくさんあります。こうした資源を上手に活用したら、色々なことができるのではないでしょうか。例えば漁村ツーリズムのプログラムを整備して体験学習を受け入れたり、今までは捨てていた魚や貝殻から肥料をつくったり。他の地域でも活用できるような成功事例を作り上げて、庄内全体を盛り上げていけたらと考えています」。

 他所からやってきた人々の力や知恵も借りながら、地元の資源を地元の人々が中心になって活かしていく。こうした取り組みがもっともっと上手に回るようになれば、地域はさらに元気になっていくでしょう。

 ここにあるものがどれだけ豊かなものなのか、気づきやすいのは移住者のほうかもしれません。それを築き上げてきたのは地元の方々ですが、両者の間には簡単には超えることのできない壁があるのも事実です。

 両者を繋ぐ重要な役割を果たしているのは、一彦さんのような方だと感じます。

 現に一彦さんが繋ぎ役となり、鼠ヶ関のイカやとらふぐを楽しむ会などを移住者の方が企画し、地元の漁師と他所から来た移住者たちが一緒になって楽しんでいる姿も見られるようになりました。

 時間をかけて築いた地元の人々との信頼があり、移住者の視点も大切にしながら柔軟なコミュニケーションをとる一彦さん。一彦さんにしか出来ない人を「繋ぐ」役割は、今後ますます多くの方から必要とされることでしょう。

▲PageTop

陽子から、楊子へ。

Essay

 先日、婚姻により姓が佐野から今野へと変更になったことについてはお知らせをさせて頂いたが、ついでに名のほうも陽子から楊子としたことについては、気がついている方、気がついていない方、少しく混乱した方、憶測を巡らせた方、んなこたぁどうでも良い方など、諸々いらっしゃったことと考える。
 これは、女性にとって生涯における一大イベント、すなわち婚姻による姓の改名において、たった一字しか変更にならなかったことへの未練、落胆、憤り等の反動から衝動的に行ったわけではなく、簡単に説明を添えさせていただくと、陽子から楊子にしたのほうが今後の人生的に良いらしいよ、と知人に教えられる機会があって、従来から名前に対するコンプレックスがあった私はこれを採用、先日の帰省の際に両親へ了承を頂いた上で、使用するに至ったのであります。
 そもそも、私は佐野陽子という名前がとっても苦手であった。苦手というのにも様々な理由があるのだが、まず第一に幼い頃からクラス替え等で自己紹介を行う際、自らの名前を必ず噛んでしまうという致命的な因果にある。これは同じく佐野という姓を持つ姉からも同様の意見を収集しており、特に「さ」と言う音が聞き取りづらいらしく、「かのさん?」「たのさん?」と、何度も聞き返されることがほとんどで、大勢の前で噛んでしまったり聞きかえされることの恥ずかしさから、声が小さくなってしまい、ついでに心も小さくなり、こそこそそわそわし、こうして陰鬱な人間になっていったと振り返る。
 また、思春期の頃には陽子という名にも多分な不満があり、今時の親ならばきっと誰も付けまいというような、外国人に聞く日本人女性の名前といえばベスト10入り間違いなしのこの名を少しく悲しく思ったものであり、姉にいたっては梓(あずさ)というちょっと小洒落た名前を付したにも関わらず、わたくしは、陽子。ようこ。太陽のように明るい子になるようにとの両親の想いに反し、趣味を聞かれれば「読書」や「音楽を聴くこと」等の単身没頭型の快楽を好む子に育ってしまい、申し訳なく、反省のあまりさらなる陰鬱のスパイラルに陥る日々。
 と、ならずに済んだのは、ひとえに私のまわりの皆さんがとても優しく愉快な方々だったからと猛烈に感謝している毎日です。
 
 長くなりましたが、つまようじの楊とも言える、楊貴妃の楊とも言える、楊の字へ改名した楊子として、今後ともどうぞ宜しくお願いします。
 ちなみに「ようじ」と打つと一発で変換できます。笑

▲PageTop

Interviews/農ある暮らしが教えてくれる小さな幸せを届けたい。鶴岡市羽黒町で新規就農 吉田伸一さん・幸子さん

Interviews


庄内平野を見渡す景色に惚れ鶴岡市羽黒町で新規就農


 山形の内陸と日本海側をつなぐ山形自動車道の庄内あさひICを降りてすぐ、鶴岡市から遊佐町までを結ぶ全長約55kmの庄内こばえちゃラインと呼ばれる広域農道(別称:スーパー農道)へ車を走らせたことがある方なら、おわかりいただけるのではないでしょうか。月山の裾野を走る小高くなった農道から見渡す庄内平野の悠然とした眺めを目にし、思わず心奪われてしまうような瞬間があります。


 息子と娘を連れ家族4人で千葉県から移住した 吉田伸一さん・幸子さんご夫妻も、ここからの景色に惚れ込んで、2010年3月に鶴岡市羽黒町へやってきました。


 関東で運輸会社へ勤務していたご主人の伸一さんは、企業に勤めるのではなく自分でものごとを興したいと思い、それまでの安定した暮らしから一転して農業に携わることを決意します。どうせやるのなら気に入った場所でと理想の土地を求めて全国各地を見てまわっていたところ、ついでに足を伸ばした庄内で目にした景色に魅せられて、ここで新規就農することを決めました。現在は2年間の研修を修了し鶴岡市羽黒町の中川代地区で畑を借りて、ブルーベリーやカブ、人参等の野菜を有機栽培で育てています。


 



  それまでの安定した収入や手厚い福利厚生などの待遇を捨ててでも、新規就農を決意したご主人の伸一さん。その決断に至るまでは、どのような思いあったのでしょうか。


 「企業で働く中で、自分はずっと会社へ勤めるのではなく、自分で何かを興したいという思いを持つようになりました。それまで勤めていた運輸会社を退職し、人に会ったり話を聞いたりしてその思いを突き詰めていったところ、農業を始めることに思い至りました。


 どうせやりたいことをやるのなら気に入った場所でやりたいと思ったので、全国各地を視野に入れて理想の場所を探しました。最初は当時住んでいた千葉から近い、埼玉や群馬を、それから新規就農に積極的な岡山や和歌山、岐阜などの西方面も検討しました。でも、なんとなく自分の中で西よりは東かな、という意識もあったので、山梨や長野、福島も見に行きました。


 また、農業の中でも果樹がやりたいという意識があったので、果樹王国である山形も選択肢のひとつでした」。


 そんな吉田さんが庄内を選ぶきっかけとなったのは、偶然目にした庄内の景色の美しさだったそうです。


 「千葉でブルーベリーの農園を見ていて関心があったので、山形県の内陸で行われた見学会へ参加したついでに鶴岡市羽黒の鈴木ブルーベリー園さんを訪ねてみようと思いました。月山を超えてスーパー農道を走っていたところ、目的地が見つからず同じ道を何回も行ったり来たりしたんですね。9月の頃だったんですが、小高い丘から見渡した黄金色に輝く庄内平野や、目前に大きくそびえる月山がすごくきれいで、なんだかイタリアのトスカーナみたい!と妻と二人で盛り上がり、一気に気持ちが傾きました」。


  そうした夫の決断を、妻の幸子さんはとても寛大な心で見守っていらっしゃいます。


 「主人が会社を辞めて自分の将来について考え始めた頃、上の子が4歳で、下の子がお腹の中にいるときでした。農業をやりたいと言われた時には、ふーん農業なんだ、というか、やったこともないし土地もないし、半信半疑でしたね(笑)


 庄内へ行くと決まってからは、本当に行くの!?と驚きながら、時間もなかったのですごくバタバタとして大変でした。でも、やるしかないというか、彼を信じるしかないと思っていたので、二人で力を合わせて乗り越えましたね。不安がなかったわけではありませんが、やりたいことがあるならやったらいい、駄目ならまたやりなおせばいいじゃない、いつもそんな風に考えています」。


 寛大なわけではなくて将来への漠然とした不安感のようなものの感覚が鈍いんですよ、と言って笑う幸子さんですが、夫を心から信頼して支える姿に女性として見習うべきことがたくさんあると、頭が下がる思いでした。


 



新規就農をサポートしてくれたたくさんの人との縁


 庄内で農業をやろうと決意した吉田さんですが、鶴岡市は新規就農者へのサポート体制が十分ではなく、市役所へ連絡しても窓口がないと言われてしまいます。そんな吉田さんが庄内で就農することができたのは、ある行政の方の熱心なサポートがとても大きかったそうです。


 「どうしてもここでやりたい、と思ってしまったので、駄目もとで羽黒庁舎へ電話をかけました。そしたらたまたま担当してくださった産業課の方が本当に良くしてくださって、研修先や研修中の補助のことから、住む家、独立後の農地まで、親身になって相談にのってくださり、自分のことのように動いて下さいました。こんなに個人の為に一生懸命にしてくださる行政の方がいるなんて、本当に驚きました。もしその方がいらっしゃらなかったら、駄目だったか…とあきらめて、今ここにはいなかったかもしれません」。


 現在はブルーベリー農園での2年間の研修を終了し、独立して2年目の農作業に汗を流している吉田さん。羽黒町の中川代にある数十年耕作放棄地となっていた畑を借り、ブルーベリーを200本、その他に赤カブや人参などの野菜を育てています。当初畑は10m級の木々が繁る雑木林だったそうですが、土地を整備する時にも地元の農家さんが本当によく面倒を見てくださり、知恵や力を貸してくださったそうです。


 「本当に人に恵まれました。農家のお父さんたちの知恵の広さ、実行力には本当に驚きました。自分たちではどうしたらいいかわからないことでも、『これはこうしたら大丈夫だー』といって、ぱぱっと片付けてしまうんです。今持っているもの、あるものを使って工夫をこらし、なんとかしてしまう力は本当に尊敬します。また、農作物の売り先についても、人のご縁に助けられました。


 振り返ってみると、やりたいと思ったことをその旬のうちにやることで、全部が繋がっていくように思いました。もたれかかるではないですが、自分の意志を明確にしてそれを大事にしながら行動を起こし、流れに乗って進んでいくことが、結果的に自然と良い方向へ導いてくれるように感じています」。


 



子どもと一緒になって遊び、自然に近い暮らしを楽しむ


 小学校と保育園の子を持つ親として、子育てに勤しむ吉田さんご夫妻。運動会などで親がかり出される機会が多かったりと都会と異なる環境の中ですが、楽しみながら実に上手に順応されています。


 「私たちよりむしろ子どもたち、特に保育園に通う娘は戸惑いがあったみたいですね。保母さんたちの言葉がママの言葉と違うので、例えば「食べて良いよ!」が、「け!(食え)」ひとことだったりするじゃないですか。娘はなんと言われているのかわからず、なんと言っているのかを聞くことも出来なくて、硬直していたことがあったようです。事前に保母さんに配慮していただくように、お願いしておけば良かったなと思いました。


 あとは、よく皆さんから自然環境が豊かだから子どもも喜ぶでしょう、と言われるのですが、自然が身の回りに溢れているからといって子どもたちが自由に遊ぶかというと、そうではないんですね。私たち大人が自然の楽しさや遊び方を知らないと、自然のなにが楽しいのか、子どもたちもわからないということに気づきました。だからまずは自分たちが遊び、子どもと一緒になって楽しんでいます」。


 


  


皆さんのバラ色の人生の、エッセンスになりたい


 吉田さんのお宅には、畑からひろってきた木々や花、幸子さんが手作りしたものなどが飾られています。農業だけじゃなく、自然とともにある生活そのものを心から楽しんでいることが伝わってきます。


 「現在、吉田里山研究所 PAPAの畑というFacebookページなどを中心に、情報発信をしています。単に農作物をつくるだけじゃなくて、農業から派生する暮らしそのものの楽しさだったり豊かさだったりを、伝えていきたいと思っています。ブルーベリーの木の中で見つけた小鳥の巣とか、あけびのつるで編んだリースや籠とか、農ある暮らしの小さな幸せを皆さんにお届けして、バラ色の人生のエッセンスになりたい。そんな思いで情報発信をしています」。


 忙しい暮らしの中で見逃してしまいがちだけど、ほんの小さな発見や幸せが、世の中にはこんなにもたくさんあるんだよ。


 吉田さんご夫妻が発信する美しい風景の写真や温かな言葉の中には、農ある暮らしが教えてくれる優しさがたくさんつまっています。是非一度、Facebookページを訪ねて吉田さんの言葉や想いに触れてみてください。 


ヤマガタ未来Lab.へ掲載

▲PageTop

Interviews/さくらんぼ農家でデザイナー。農ある暮らしと天職を行う生き方(半農半X)を実践 宮城 妙さん

Interviews

 



山形の代表的な果物・さくらんぼの農家に生まれたデザイナー


 山形県と聞いて、イメージするものは何ですか―。


 そう聞かれて多くの方は、さくらんぼと答えるのではないでしょうか。実際のところ、山形県が生産するさくらんぼの量は全国の生産量の約7割をしめており、名実ともにさくらんぼ王国と言えます。


 さくらんぼの生産地として県内でも有名なのは、東根市や寒河江市、天童市などの内陸の地域です。しかし、海に面するここ庄内でも、旧櫛引町を中心にさくらんぼがつくられており、生産量は県全体の1.3%とわずかですが、高い糖度にほどよい酸味のある濃厚な味わいが特徴的です。


 そんなさくらんぼ農家に生まれ、昨年5月にUターンをした宮城妙(旧姓:鈴木)さん。


 妙さんは、1979年鶴岡市旧櫛引町にある鈴木さくらんぼ園の二人姉妹の姉として生まれ、地元の鶴岡南高校を卒業後、武蔵野美術大学(東京都小平市)へ進学して工芸工業デザイン・木工コースを専攻します。大学を卒業後は東京でデザイン系の会社へ就職し、10年ほどインテリアなどのデザインやプロモーションの仕事に打ち込み、その間に学生時代に出逢ったご主人・宮城良太さんと結婚。その後会社を退職し、フリーのデザイナーとして約2年の活動を経て、2012年5月に鶴岡へUターンしました。


 



デザインにめざめ、その道を突き進んだ学生時代


 さくらんぼ農家に生まれた妙さんが、美術やデザインに興味を持ったきっかけは、どんなところにあったのでしょうか。


 「幼い頃から、絵を書いたり工作をしたりすることが好きでした。水彩画や版画などに親しんでいた父の影響もあったと思うのですが、高校へ入る頃にはデザインや立体造形などにも興味を持つようになりました。担任の先生が美術の先生だったこともあって、美術系の大学への進学を意識するようになり、デッサンや受験に必要なことは全て教えてもらいました。」


 そして高校を卒業後、上京することになった妙さん。大学では家具や家電製品、室内空間など身の回りのデザインを総合的に学ぶ、工芸工業デザインを専攻します。


 「私は木工コースを選択したのですが、ただデザインをするだけでなく、設計図を引き、素材となる木を選び、カンナやノミをつかって木を削り、実際に組み立てて、椅子やテーブルを創作するということをやっていました。」


 その他にも、木によって異なる特性を理解して機能性や使い勝手を考えたり、どんな人につかってもらいたいかとマーケットを考えたりと、一連のプロダクトデザインを勉強したそうです。


 ちなみにどんな木が好きですかと訊ねたところ、少し悩んだ後に、呼吸をしている感じのする木が好きです、と答えた妙さん。木の呼吸を感じることができる感性は、きっと幼少の頃に地元で育まれたものではないでしょうか。


 


  


 東京を舞台に、インテリア関係のデザイナーとして活躍


 2001年に大学を卒業し、東京のデザイン系の会社でバリバリと仕事をこなしていた妙さん。朝から晩まで商品のデザインやプロモーションなどの仕事にどっぷり浸かり、忙しい毎日を送ります。こうしてデザイナーとしての道を突き進んでいく中で、徐々に違和感を感じるようになったといいます。


 「好きなデザインに没頭し、充実した毎日を送っている中で、だんだんと自分の中に違和感を感じるようになりました。例えば山形に行けば農園があって、父が持っている技術があるのに、それを引き渡す相手がいない現実を考えたときに、自分がそれを受け取ることが、ごく自然なことなんじゃないかと思ったり。


 そんなことを考えていた頃、半農半Xという言葉に出会い、すごくしっくりきました。私は農業をしながら、自分ができることをやっていったらいいんじゃないか、そんな考えを持つようになりました。」


 半農半Xとは、「持続可能な農ある小さな暮らしをしつつ、天の才(個性や能力、特技など)を社会のために生かし、天職(X)を行う生き方、暮らし方」と、提唱者である塩見直紀さんは定義づけています。


 農業だけをするのでもなく、デザインだけをするのでもない、新しい生活のスタイルを考えるようになったころ、同じ大学で内装のデザインを専門に学び、同じく東京でデザイナーとして活躍していた宮城良太さんと結婚します。2007年の5月のことでした。


 



Uターンを後押ししてくれた、夫の存在


 そうした違和感を感じるようになり、デザインの仕事にのめりこんで約10年がたったころ、自分の中でも一区切りがついたように感じたときがあったそうです。それから地元鶴岡にUターンをすることになりますが、どのような動機があったのでしょうか。


 「実家にUターンするきっかけはいくつかあったのですが、そのひとつがあの東日本大震災でした。夫の実家が宮城県の南三陸にあったのですが、ご存知のとおり津波で流されるなど、大きく被災しました。幸い家族は全員無事だったのですが、こうした時のためにも東北に拠点を置いて、家族の近くで協力し合って暮らしたいという風に思うようになりました。」


 他にも、妙さん自身が過労で体調を崩したことも影響したそうです。少しゆっくりしたいという気持ちもあり、10年ほど勤めた会社をやめて、フリーのデザイナーとしてゆったり活動していました。 


 「あとは、夫の決断によるところが大きかったと思います。もともとすごくポジティブな人なのですが、知り合いが全くいない、知らない土地である私の地元に行くことに対して全く心配せず、どこに行っても暮らせるよ、と言ってくれたことは心強かったです。私の実家の農園に対しても関心をもってくれて、農家の経営だったり、自分たちが身につけてきたデザインの力を生かしたりと、色々なことができると思ってくれたんだと思います。」


 たくましくて理解のある素敵な旦那さんを連れて、2012年5月、妙さんは鶴岡市へUターンします。



 半さくらんぼ園と半デザイナー、農ある暮らしと天職を行う生き方を実践


  現在は、実家のさくらんぼ農園を手伝いながら、鶴岡駅近くの花屋で勤務している妙さん。ご主人とデザイン会社を経営していますが、今はそこまで打ち込まず、デザインの仕事から少し離れてここでのやり方を探している最中だそうです。


 「デザインはクライアントとの仕事が大半でしたが、お客様と直接やり取りして喜ぶ顔が見られるのが本当に楽しい。お花はデザインに対する瞬発力も鍛えられます。原点に戻ってではありませんが、実際にお花に触れたりしながら、色々な手法や方法から自分の創作やデザインとの関わり方を考えているところです。


 これまでは、デザインやモノがたくさんあふれている都市部でも勝負できるようなデザインを目標としてきました。そうではなくて、ローカルに特化したといいますか、地方の暮らしに添うデザインをしてみたいと思っています。


 それはモノのデザインかもしれないし、コトのデザインなのかもしれません。自分の中でも答えを探している途中ですが、もしかしたらコトなのかもしれません。場づくりだったり、暮らしそのものだったり。」


 具体的なことはまだ未定だそうですが、妙さんの話を聞いて、地方に合った地方らしい暮らしをデザインすることを思い浮かべました。田舎で暮らす人が都会のような暮らしに憧れて真似をするのではなく、田舎に昔からあるような自然と寄り添った暮らしを、現代風にアレンジして楽しむこと。


 実は地方では昔から、農業だけでなく手仕事や季節労働をして暮らすという生活様式が一般的でしたが、現代になって企業や団体に定年まで勤めるというスタイルが定着し、結果として地域の技術や行事の一部が失われつつあります。


 地方の暮らしや文化が崩れてきてしまっている今、半農半Xという生き方やフリーランスでの働き方を実践し、田舎での暮らし方を試行錯誤している方もいますが、そうした中でもデザインの力は非常に重要だと感じています。


 「高校生くらいの頃は、田舎暮らしや、何もないところに窮屈さに感じていました。人間関係の密度が高いと言いますか、よく言えば口コミ力と言えると思うのですが、些細なことがすぐに広まってしまったりとか。


 今、帰ってきてみて改めて地域を見ると、何もないように見えるこの町にこんなにも色んなものがある、と感じます。山菜とか、地域のお祭りとか、おじいちゃんおばあちゃんの手仕事とか、地域のつながりとか。面白い人もいっぱいいて。何年も暮らしていたところなのに、何を見ても新鮮に感じます。


 そうした新鮮さの一方で、父や母の世代へ受け継がれていないことの多さに危機感を覚えます。せっかくいいものがあるのに、このまま消えてしまってはもったいない。自分たちの世代が受け継いでいかなくてはと思います。」


 こう語る妙さんの言葉に、共感する方は少なくないでしょう。 


 最後に、県外で暮らす若い世代の方々へ特に伝えたいことはありますか、とお聞きしました。


 「同じように、婿取りのような立場の女性が、旦那さんを連れてUターンするケースが増えるといいなと思っています。地元に帰ってきて思うのは、若い夫婦が本当に少なくて、珍しいということ。ゆくゆくは帰ってこようと思っている方も多いと思いますが、ばりばり農業ができる体力があるうちに帰って、両親や地域から色々なものを引き継ぐという選択もあっていいと思います。そうしてUターンをした人も繋がって、地域を盛り上げていけたらいいなぁと思います。」


 Uターンをしてからやっと1年。まだまだ色々な人と出逢いたいし、地域の素敵なことも発見したい。ゆっくりと焦らずに、自分の力の生かし方を探したいと語る妙さん。そんな妙さんの生き方に多くの方が共感し、多くの若者が勇気づけられることと思います。

 仕事のパートナーでもある旦那さんと共に庄内でどのような暮らしをされていかれるか、今後もとても楽しみです。

 

▲PageTop

英会話とキャンディ/2013エッセイ

Essay

 週に一度の習い事に出かける。自宅から徒歩2分のところにある、出羽庄内国際村で行われる英会話のレッスンを受講しているのである。
 4月から新しく私の先生になったオーストラリア人のトムは、とても陽気で独り言も多く冗談ばかり飛ばしており、アメリカ人のようである。一方、昨年のレッスンを担当していたアレックスはアメリカ人だったのだが、シャイで非常に真面目な先生だった。どうやら私の国籍に対する偏見はあてにならないようだと痛感する。
 この日はみんなですごろくをした。Sugoroku。ゲームの勝者上位3名には、あぶらとり紙、動物の顔を模したファンシーなボディスポンジ、缶ジュース(2本)が送られるとのこと。これらの景品はトムが105円ショップ(100円ショップじゃなくて105円ショップさ!と繰り返すトム。)で調達したらしい。誇らしげなトムだがどうしてこれらの品々を景品に選んだのか、気になって仕方がない。
 問いたい気持ちをぐっとこらえ、生徒6人でテーブルを囲み、サイコロを振ってこまを進めてゆく。マスごとにイベントがあり、特筆すべきことに「Candy」というマスではそこにコマが止まった場合、全員で飴やグミなどのCandyを食べられるとのことである。
 「Candy」にコマが止まると、「Yeah! Candy!!」「Nice Candy! Candy!!」と、全員でひた叫び、Candyに群がり、コマを進めた生徒は英雄のような面持ちである。普段の生活ではさして嬉しくないことでも、英会話中だとすこぶる嬉しいから、不思議である。今年30になるにも関わらずNice Candy!とはしゃいだ自分を振り返ると、恥ずかしくてくらくらする。でもみんなはしゃいでいたから大丈夫だと、自分を励ましている。
 どうしてか私のサイコロは1や2などの少数ばかり出すために、皆から大変な遅れをとる。残り時間も少なくなってきた頃、なんと1番手の方と位置をトレードするマスにあたり、遂にそのまま1位でゴールインしてしまった。自分自身が一番驚く。こんなところで運を使った私。
 満面の笑みを浮かべるトムから景品の缶ジュース(2本)を受け取り、私と位置をトレードした友人と分け合って、今日も愉快な英会話だったなぁと、てくてくと家路についた。



みかんと移り気


 あんまりスグルさんにばかにされるので、悔しくなって、みかんというあだ名をつけて呼ぶようにした。最初の頃は、みかんと呼ばれることに少し納得のいかないような表情をしていたけれど、このところすっかりみかんが馴染んできて、みかんと呼んでも全く平気なようである。仕舞いには自らみかんと称するようになり、今度は私がすこぶる納得いかない。
 さらにはみかんというあだ名が少し羨ましく思えてきたので、これはこれは、自分の心の移り気で欲張りなことを恥ずかしむ。


コンビニエンスストアとくぢさがれたパン


 夜は習い事で帰宅が遅くなる。会議のため同じ頃に帰宅したスグルさんと遅い夕食を摂る。夕方に職場近くのコンビニエンスストアにて起こった出来事に興奮している様子なので、聞き役に徹する。
 夕刻のこと、小腹をすかせたスグルさんは近くのコンビニエンスストアでパンをひとつ買い求めたそうである。会計の際、店員の20代とおぼしき女性から温めますか、と聞かれたのでお願いしますと答えると、
「それではくぢさぎますねー」
 と、唐突に添えられたそうである。チンという音とともにほかほかのパンが電子レンジより取り出され、彼女はそれをビニール袋に素早くしまって持ち手をくるくるとまとめながら、「くぢさげてますので気をつけてお持ちくださいねー」と、再び念を押すように添えたそうである。
 「くぢさぐ」とは庄内弁で「口裂く」のことである。破裂を防ぐために切り込みを入れますよ、ということを意味していることは理解できるのだが、なんというか、少し開けますね、が庄内において口裂きますね、と変換されている、それも若いおなごが何度も何度も「くぢさぐ」と繰り返し、コンビニエンスストア・マニュアル的にも承諾されているようなので、衝撃を受けたようである。
 18でこの土地を離れたとはいえ、自身も庄内人のはしくれ。「んだ、くぢさいでくれよー」くらい、返したほうが良かったのだろうかと思い悩み、悩みながらもほかほかのパンで小腹を満たし、おなかには平穏が訪れ無事に会議を乗り越え、それでも気になって仕方なく、今こうして私に熱弁をふるうに至っているようである。
 店員さんの前で鳩が豆鉄砲をくらったようになったスグルさんを想像して内心ぷぷぷ、と思っていたが、ぷぷぷと思っていることが知れてはまた叱られるかもしれないと思い、先日にんにくで学習した私はそれはそれはと神妙に聞き入って相づちを打つ。一方で、くぢさぐ、という庄内弁はネイティブにしか自然にできない発音なので、大変気になり、何度か小声で言ってみるけれどうまくいかない。くぢさぐの「ぢ」が特に難易度が高い。
 そのうち、気が散り散りになっていることに気がつかれては先日の二の舞と気づいた賢い私は、練習は後ですることにして、再びじっと話に聞き入る。

爆弾低気圧と中古の自転車


 爆弾低気圧という言葉を覚えたのは去年のことで、新しいことを覚えることが比較的苦手な私でも容易に覚えることができたのは、その威力と破壊力が凄まじかったからだろうと慮る。
 この土日にかけて、昨年のそれと等しい低気圧がまた近づいてくるらしい。そう聞いて恐れ戦いて、週末は家にこもってなんとかやり過ごそうと決心していたけれど、いざ土曜日になってみるとさして風雨も強くなく、肩透かしをくらいあっけにとられる。聞けば、ここ山形には少し遅れをとってやってくるらしい。
 緊張感から開放されるなり、以前より購入を検討していた自転車を探しに出かける不真面目な我々。ホームセンターで新品の安い自転車を買うことを一番に思いついたが、町の自転車屋さんで中古の自転車がうまく手に入らないものかと考えて、羽黒街道沿いの自転車屋さんを訪ねることになった。
 1軒目に訪ねた自転車屋さんで、初老の店主と思しき男性がひとりで自転車を修理していた。お店には新品の自転車がずらりと並んでいる。遠慮しいしい店主へと、中古の自転車を探しているのですがと伝えると、予算はと聞かれる。安ければ安いほどありがたいですと言うと、ちょっと待ってろ、と言い残して店の裏へと回っていった。戻ってきたときには、少し錆びは目につくもののまだまだ現役のブリジストン製の自転車をひとつ従えている。破格の値段を聞きこちらで十二分と判断した我々は、是非にお願いしますと嫁取りを申し出る。晴れて交渉成立である。
 奥から娘さんかお嫁さんかと思われる女性が出てきて、事務手続きに関する様々を執り行う。始終丁寧な様子で感心する。爆弾低気圧前におちおちと自転車を買いに出かけるような私たちに珈琲まで出していただいて、恐縮する。
 去り際に、「磨けばきれいになるから」と、やすりまで付けてくれた。荒れゆく天気に反して晴れやかな心持ちで帰路につき、アパートの自転車置き場で早速錆び落としに専念する。そのうち空が怪しく垂れ込めてきたので、後ろ髪を惹かれる想いで錆び落としを断念し、当初の思惑通り縮こまってなんとか暴風雨をやり過ごす。


居酒屋「隼」とこうなごの佃煮


 本日は親しくして頂いている広島出身の友人と居酒屋へ繰り出す約束のある日なので、朝から浮かれる。あんまり浮かれて気分のままに焼き菓子をこしらえるほどである。一通りこしらえ終えてから、先日にんにくを掘り返して叱られたことをすっかり忘れていることに気がついて、浮かれるのもほどほどにして、昼過ぎからはじっと神妙に夕刻を待つ。
 雪がとけて寒さも弱まったから、今日こそは自転車で出かけようと決めていた。実はこの季節に自転車を走らせることを例年の楽しみにしていて、暮れてゆく夕陽の中、冬と春、昼と夜が入り乱れる気配に五感を浸し、少し肌寒いのをこらえながらゆっくりと進んで行くことに、動物的快楽を感ずるのである。
 待ちに待った時間となり、友人と落ち合って昭和町の「隼」という居酒屋に入る。山形地鶏の料理で有名で、かねてより訪ねてみたいお店のひとつであった。私はビールを、友人はグレープフルーツジュースを頼み、地鶏の焼き鳥、アスパラ焼きなどを味わいながら、お目当ての山形地鶏のレバーペーストをオーダーする。細かな感想は省略するが、鶴岡の中でもレベルの高いお店で文句なしの至福の時間だった。
 幸せな気分いっぱいで帰路につく。帰り際に友人から、こうなごの佃煮を土産に頂戴した。友人のお母様のお手製のものらしく、心から感激し再び浮き足立って帰路につく。しかし次は抜かりないよう玄関前で浮いた足をしかと地面につけてから、靴をそろえて家の中に入る。
 翌日に早速頂いたところ、生姜の効いたこうなごの佃煮の美味しいことこの上なく、純米吟醸「和田来」との相性もとてもよく、つい飲みすぎる。スグルさんもご機嫌で悦に入っている様子である。これできっとにんにくのことは帳消しであろうと、ほっと胸を撫で下ろす。これも全て友人のおかげなので、重ねて感謝する。

写真 (5)

image (3)



骨が3センチくらい無いらしい


 友人とともに某病院に赴き、過日山肌を滑り落ちて左足を粉砕骨折し、ヘリコプターで救出された話題の友人(親ほどの歳の方で友人と呼ぶには大変恐れ多いが、されど他に呼び名が思いつかないので、友人と呼ばせていただく)を訪ねる。
 話題の友人は類稀なる精神力の持ち主で、我々の訪問とリクエストの珈琲に喜ぶや否やまず、骨折にいたるまでの様子をiPhoneにおさめた写真とともに解説し、それから明日に控えた手術の詳細を話してくれた。
「骨が3センチくらい無いらしくてさぁ、折れたときに飛び出して、そのまま山に置いてきたんだなぁ」。わははと笑う話題の友人。凍りつく私。
 左足には金属の棒が何本も刺さっていて、その様子を見ているだけではらはらとしてしまう心弱い私は、「い、いたくないのですか」などという、猿でもしないような問いを投げかける有り様。「うーん、骨に刺してるからかあんまり痛くないみたい」との友人の返答に、心臓まで凍りついて卒倒しそうになる。
 帰り際、是非お持ち帰りなさいとみかん類を頂く。私たちと入れ替わりにきていた客人の土産で、これまで聞いたことの無い様々な品種のみかん類を持ってきていらした。客人は丁寧に品種について説明をしてくれたのだが、私も友人もさっぱり覚えていない。ともに訪ねていた広島出身の友人が柑橘類に馴染みがあり、手ほどきをうけて選抜する。
 夜遅くになってから、ありがたくそれらを頂戴する。こんなに美味しいみかん類を口にしたことがなかったので、驚き感動する。

写真 (3)


冬の終わりと十一屋のまんじゅう

 
いよいよ今日から洗濯物を外に干すことにいたそう。そういえば、昨年の今頃にもそう決意した日があったように思う。ほとんど全てを干し終えてから、不意に思い出した。
 ここ1週間のうちに、あれほどに閉口させられた雪がすっかりとなくなった。その去り際といったら潔いことこの上なし。あの厳しい冬の日々は一体なんだったのだろう、と憂う程でもある。しかしそれ以上に一日一日と近づく春の訪れが慶ばしく、単純な頭なので憂いのことはすぐに忘れる。
 ふと、まるで雪のような人という表現について考える。これまで雪のようなと形容されれば、ふわふわと儚く、可憐でしとやかなさまをイメージしたが、そうでもなかったのではと気がつく。勝手気ままに厳しく暴れまわり、気がついたらきれいさっぱりいなくなっている。そんな人のことも言えるのかもしれない。まんじゅう右手に想い耽る。
 天気が良い日にふらりと外に出かけられるのは、自由な身の特権であるとつくづく感じ入る。土手で川面を眺めながら、まんじゅうに舌鼓を打っていた。十一屋の藤島まんじゅうである。白餡の中に混じる小豆の、少し塩味がきいたのがまた良い。ぽかぽかの陽気の下まんじゅうを食らう。これもひとつの贅沢の形。

写真 (2)

▲PageTop

肥えまきと籠職人のおじさん/3年目の小作人日記

Essay

 低気圧が行った翌日、天候に恵まれたので畑へ肥え撒きを行う。
 せっせと撒いているうちに肥えで足を滑らせて、あわや肥えの中に一身を投じるかというアクシデントに見舞われる。幸いなんとか踏みとどまることができたものの、恐怖のあまり半ベソをかきそうになる。畑を始めて2年、精神の鍛錬を重ねてきたはずが肥えまみれは怖いようなので、まだまだ甘ったれた自分に気がついて気を落とす。
 そうしている内に風が強まってきたので、気を落としてばかりではいられず、懸命に踏ん張って肥えを撒く。
 あねちゃ方面から自転車でやってきたおじさんに声かけられる、「ねーちゃん、畑やってんなかー」そうなんですー、宜しくお願いしますー。挨拶を交わす。おじさんは何の前触れもなく「あれ、腰さぶらさげる籠、もってるかー」と訊く。いえ、常々欲しいと思いながらもまだ、と答えると、実はおじさんは腰にぶらさげる籠の作り手で、ただ今あねちゃへ籠を納品してきた帰りだそうである。とっても驚く。
 「今度やすぐ売ってやっさげのー」
 わははと笑いながら、おじさんは西のほうへ自転車を漕いで去っていった。

▲PageTop

食ツーリズムやまがたHP掲載/第三回おいしいやまがたコラム

Column

☆山形県が運営する「食ツーリズムやまがた」Webサイトへコラムを書かせていただきました。
 掲載先HP http://shoku-tourism.jp/column


見たことも聞いたこともなかった野菜たちに惹かれて山形へ移り住み、季節の移ろいを旬の食材から感じられる日々に心を躍らせています。好奇心のままに生産者をはじめとしたこの土地で暮らす人々からお話を伺ううちに、豊かな食の背景にある文化の奥深さに気づかされ、今では美味しいだけにとどまらない山形の食の魅力を感じています。


 山形には数多くの在来作物が残されていると言われています。在来作物とは、その土地で代々種を採り受け継がれてきた作物のことで、代表的なものにだだちゃ豆や赤根ホウレンソウ、平田赤ねぎ、温海かぶなどがあります。見た目や食味に特徴のある伝統野菜だと考えていたのですが、実はそれだけではありませんでした。在来作物は生きた文化財でもある。そう教えてくださったのは、山形大学農学部の江頭先生でした。

 在来のカブを例にとってみると、その多くはもともと飢饉の対策として育てられてきたものでした。生育期間の短いカブはお盆の頃に種を播いても秋には十分収穫ができるため、冷害などで米の不作が予想される年に育てられ人々の命を支えてきたそうです。山の斜面を利用した焼畑農法で栽培されるカブは、その技術を今に伝える役割を果たしています。このように、作物が栽培されてきた環境、栽培の技術、調理の仕方といった多くの関連情報を現在に伝えていることが、在来作物を生きた文化財と呼ぶ所以です。


 さらに食と祈りが密接に関わりあっていることも、山形の食文化の興味深いところです。東北随一の修験の霊場・出羽三山の神々を祀る鶴岡市羽黒町の出羽三山神社では、花祭り、八朔(はっさく)祭、大晦日の松例祭といった五穀豊穣を祈るお祭りが毎年盛大に行われています。昔の様子を色濃く残すこれらのお祭りから、この土地の人々が自然に対する畏敬の念を忘れずに生きていることを感じます。現代のように天気予報も大型農機もなかった時代、天候に恵まれ作物が無事に育つことは神のなせる業だったのでしょう。懸命に祈りを捧げる昔の人々の切実な想いが伝わってくるようです。
食はいのちと直結する、いわばいのちの源泉です。作物や食に関わる文化が充実している地域というのは、そこで代々暮らしてきた人々の知恵やこだわり、そしてたくさんの想いがつめられているように感じます。単に美味しいものがたくさんあるだけではない「山形」という土地の奥深さに、感銘を受け続けている毎日です。

▲PageTop

雪解け後の畑とにんにく/3年目の小作人日記1

Essay

 昨年の秋は酒蔵に勤めて忙しく過ごしていたこともあって、春のための野菜を植えることができなかった。
 それでも雪解け後の畑の姿を見るのはまだ2回目のことなので、楽しみで胸がどきどきする。昔好きだった人を覗きに行く感覚と近いかもしれない。と考えて、昔好きだった人を覗いたことがあったような気がするけれど思い出すことができないので、想像の中のことだろうとひとり恥じ入る。

 畑のへりに車を寄せて、長靴に履き替えて土の上に降り立つ。懐かしい踏みごこちに気分は高揚する。土とともに姿をあらわしたビニールやプラスチックの破片などの様々なゴミを拾いながら、野菜の残骸や畝の具合を目にしては去年育てた野菜たちを思い浮かべる。
 畑のお向かいさんでお世話になっているMさんが、私に気がつく。約半年振りとなる再会なので、お互いの変わりない様子を労った上で世間話を交わす。今日は、冬の間に選定をした柿の枝を片付けにきていた様子。
「まんず、一気に忙しくなるのー」んですのーと、相槌を打って別れる。

 帰り際、奥の畑へと続く整備されていない小道の傍の、にんにくの様子を確かめる。こちらは昨年の秋にスグルさんが植えたもので、無事に越冬をしてすくすくと成長している。もうそろそろ小さな赤ちゃんにんにくが出来ているのではないかしらと予測して、掘り起こしてみたが、変化はないようだった。
 帰ってから、掘り起こした旨を報告して叱られる。にんにくの収穫は夏のようである。仕舞いには掘り起こした形跡のある証拠写真までおさめてしまっていたから、さらにばつが悪く、小さくなって過ごす。
 

写真 (4)

▲PageTop

2013.2.15荘内日報掲載 私と読書エッセイ「一冊の本がくれた、鶴岡での暮らし」

Column


 一冊の本との出会いがきっかけで、鶴岡に住まいを移してしまった。

読書に関する思い出はありませんかと聞かれたら、真っ先にそのことが思い浮かぶ。庄内の在来作物とその再生を追ったノンフィクションに大変な感銘を受けた私は、本に出てくる作物や人々に会いたい一心で当時予定していた留学をキャンセルし、期待で胸いっぱいに本当に鶴岡へ引っ越してしまったのだから、我ながら驚きである。

今でこそ己の向こう見ずな性分に恥じ入り周囲にかけた心労に頭が下がる思いでいっぱいなのだけど、こうして今、鶴岡という土地の豊かな食や独特の文化を知り、季節の移ろいを五感で味わい、東京にいては出会えなかったであろう人々と親交を深め、一日また一日と過ごせることを幸せに思う。

そんな運命的な出会いをくれたのは、図書館だった。東京で暮らしていた頃家から五分とかからないところに区立の図書館があり、それほど大きくないものの蔵書は多様で居心地も悪くなく、休日ともなれば足を運んで時間を過ごすことをささやかな娯楽としていた。

二十六歳の冬だった。からからに乾いた冷たい空気の中、コートの襟を立てて足早に歩いた道中で、見上げたうす青い空いっぱいにケヤキが枝木を広げていたことをよく覚えている。

図書館でいつものように整然と並ぶ背表紙のタイトルを追っていると、ふと「庄内」という文字が目についた。庄内といえば、庄内平野。庄内平野はたしか、山形だったはず。当時の私の庄内に関する知識はその程度だったにも関わらず、目が留まったのは意中の人が山形出身だったからだろう。表紙には冠雪した富士山に似た美しい山と、どこまでも広がる黄金色の田んぼが写っていた。

その日は中身まで見ずに元の位置に戻したのだが、別の日に図書館を訪ねると再び庄内の二文字が目に入る。これはきっと何かのご縁と、今度はカウンターで貸し出し手続きを済ませて大事に家まで連れて帰った。その後に起こったことは、先に述べたとおりである。

『庄内パラディーゾ』と題されたその本に出逢わなければ、私はここにいなかっただろう。あれから三年が経った今、改めて振り返り感慨深いものを感じている。

ところであらかた楽しく過ごしている鶴岡での暮らしの中で、途方に暮れてしまったことの一つに読書の時間がある。

それまで私は読書の時間の多くを通勤や通学の電車の中で過ごしてきた。学生時代、神奈川県の実家から高田馬場の大学までの往復時間は優に四時間はあり、そのほとんどを読書にあてることができたことは今思えば幸運だった。本と共に電車へ乗り込めば、窓の外を眺めるほかに退屈な時間がたちまち夢世界となった。

そうして過ごしていた本との時間が、電車と疎遠な生活となってきれいさっぱり無くなってしまったのだから、焦った。そしてこれは言い訳でもあるのだけれど、そう易々とこの土地は私に読書をさせてはくれなかった。

穏やかに晴れた日ならどうしてか、まず山が気になる。無意識に心は月山と鳥海山を求め、ふらりと出掛けてはその悠然とした姿を見止め、ほっとする。視線を手前に落とせば田んぼや畑が四季折々の表情を楽しませてくれるし、じっと目を凝らすと名も知らぬ花や草木、生き物たちが息づいていることに気がついて、嬉々としてしまう。

雨の日は雨の日で、雨風の力強さに圧倒される。時折やってくる理不尽なほどの暴風には家が吹き飛ばぬものかと気が気でないし、静寂を打ち破って襲来する雷には恐怖心を紛らわせるために音楽に身を委ねるほか成す術なしである。

このように、鶴岡は色も光も、音も香りも、豊かなところだとつくづく思う。個性的で変化があって、飽きることがない。だからそれらの誘惑や挑発を断ち切り読書の世界に没頭するのは、とても難しい。

でもこうした土地だからこそ、身を浸せば浸すほど想像力は豊かになるだろう。以前と同じように本を読んでも見ている景色は輝きを増し、細部まで生き生きと描けるようになっているように感じている。

恵まれた環境がために読書に没頭できないとは、贅沢な悩みである。本との出会いがくれた鶴岡での暮らしだが、もう少しこの贅沢を楽しみながら、私なりの読書の仕方をゆっくりと探していけたらと思っている。

▲PageTop

#032 布を織り地酒を語る、異色の織り手 夕日家地酒Bar店長 池田敦さん 2013.3.12

Interviews

池田敦さん


地酒Barを支える、鶴岡シルクKibisoに魅せられた若き織り手


 昔から米どころは酒どころ、お米の美味しいところに旨い酒ありと言われたものですが、ここ山形にも銘酒と呼ばれる日本酒が数多く存在し、全国各地の日本酒ファンを惹きつけてやみません。山形県全体では54の酒蔵が存在しますが、ここ庄内地方には19の蔵があり、それぞれのこだわりと想いでお酒を醸しています。


 伝統的な食文化でもあり地域の大きな財産といえる地酒を、多くの方に知ってもらい、楽しんでもらいたい。よそからやってくる観光客の方はもちろんのこと、地元の方もビールやワインにばかりに目を向けるのではなく、酒の面白さに気付いて欲しい。


 そうした想いで庄内19蔵全ての地酒を取り扱っている地域唯一の地酒専門店「佐野屋」さん。店主の佐野洋一さんは2012年6月に鶴岡駅の近くに地酒専門の居酒屋「地酒Bar」をオープンさせ、日本酒ファンはもちろん日本酒初心者の方にも気ままに地酒を楽しめる空間を提供しています。


 この地酒Barで現在店長を務めている、池田敦さん(28)。池田さんは1984年茨城県に生まれ、ひたちなか市の高校を卒業後、新潟県長岡市のデザイン系大学へ進学しました。もともと服飾関連に興味を持っていた池田さんは、大学でテキスタイルデザインを専攻し、実際に布を織ったりデザインをしたりしながら学生生活を送ります。卒業後もその道を歩んでいこうと決意し、織物工房で作家さんのアシスタントから始めていこうと考えた池田さんは、大学時代の友人を頼りに東京、岐阜、京都などを渡り歩き、2009年11月、山形県鶴岡市で出会った新しい絹織物・Kibiso(キビソ)に興味を抱き、ここにやってきました。


 


池田敦さん写真1   池田敦さん作品写真2


テキスタイルデザインとの出会いと、手織りの布に魅せられた学生時代 


 テキスタイル(texitlle=織物、布地)デザインとは、織物や染物等の繊維全般に関するデザインをいいます。デザインする布地の用途により服飾系とインテリア系に大きく分けられますが、布の色や模様、質感などを総合的にデザインする点で共通しています。


 池田さんはお試しで受講した講義でテキスタイルデザインに出会い、布や服飾系の小物をデザインすることはもちろん、「布を織る」という作業自体に大変興味を持ったそうです。


「もともと服飾に興味があってデザイン系の大学に進んだのですが、テキスタイルデザインが唯一服飾に関連するコースだったこともあり、それを専攻しました。時代の流行りでグラフィックデザインを専攻しようかと思ったこともありましたが、布を織ってみたらその作業が純粋に面白くて、結局そちらに進むことにしました。」


  縦糸と横糸を交差させ、それを何度も何度も繰り返して1枚の布に仕上げていく。機械とは比較にならないほどの時間と労力が必要となる手織りですが、それに加え集中力や繊細な技術も求められます。想像するだけで気の遠くなる作業ですが、やはり機械でつくられる布とは別格なのでしょうか。


「そうですね、仕上がりの違いというよりも、手織りの一番の特徴は自由度の高さではないでしょうか。色や形に変化をつけたいと思ったときに、手を止めれば変えることができます。布は縦糸と横糸で直線で織るものですから曲線を表現するのが難しいのですが、なめらかな曲線を表現したり、複雑な模様を描いたりすることも手織りなら可能です。」


 それが面白さでもあり、難しさでもあるのでしょう。池田さんが制作された織物をいくつか見せてもらいました。デザインが優れているだけでなく筆舌に尽くしがたい繊細さと質感があり、人が時間をかけてつくったものだけが持っている空気感がそこにはありました。


 


 池田敦さん作品1


同級生と新しい絹織物「Kibiso」との出会いから、鶴岡へ


 織物を生業にしていきたいと考えた池田さん。鶴岡シルクとの出会いは、どんなところにあったのでしょうか。


「大学を卒業後、友人を頼りに東京、岐阜、京都など各地の織物産業や工房を見て回りました。鶴岡には同級生の佐藤天哉さん(はんどれい株式会社)がいたことと、きびそという絹の素材を活用した新しいブランド「Kibiso」へ尊敬しているテキスタイルデザイナーの須藤玲子さんが関わっていたことから興味を持ち、2009年11月、初めて鶴岡にやってきました。」


 きびそとは蚕が繭を作るときに最初に吐き出す糸のことで、太くてぼそぼそとしていることからこれまであまり繊維としては使われてきませんでした。しかしその独特の風合いを逆に生かして、これまでの絹織物と異なる絹製品をデザインしていこうという動きが一部の地域で起こり始め、そうした流れの中で鶴岡シルク株式会社がプロデュースしたブランドが「Kibiso」です。


「Kibisoプロジェクトには国内の有名なデザイナーやこれからどんどん伸びていくような会社がたくさん関わっていることも魅力的でした。知り合いにプロジェクトを進めている方を紹介してもらい、須藤玲子さんにも実際にお会いして自分の作品を見てもらうことができました。ありがたいことに須藤さんからは好評価をいただくことができました。」


 具体的に商品化するという話が出ながらも、現時点では残念ながらそこまでには至っていません。それでもしばらくはここで織物をやっていこうと決意した池田さんは、1年の有期契約ながら櫛引の綴れ織り工房での職をちょうど得ることができ、そこで1年の制作活動を行うことになります。


 


  池田敦さん作品2


鶴岡市櫛引の綴れ織り(つづれおり)工房で、帯などを制作した1年間


 2010年4月、鶴岡市櫛引にある綴れ織り工房で働くことになった池田さん。それまで鶴岡で過ごした約半年間は、はんどれい株式会社さんの2階事務所の一角と織り機を借りて制作活動を行っていたそうです。


 「櫛引の綴れ織り工房では、長南光さんらの作家さんについて研修生として帯を織っていました。主に制作していたのは着物の帯ですね。」


 それまで和装にあまり興味を持ったことがなかったという池田さん。そこでの1年間で技術的にも多くのことを学びました。


 綴れ織りとは西陣織りと同様の技法で、横糸だけで模様を表現することが大きな特徴です。研修終了間近になり、最後の作品として制作したのが写真の「Heineken」の布でした。


「文字が一番ズレなどが目立ちやすく難易度が高いため、文字の入った図柄にしようと思い、家の中で目に付いたHeinekenのコースターをモチーフにしました。40cm四方くらいの布ですが、これで約1ヵ月の制作期間がかかっています。上手な方は織るのが早いのでそこまでかからなかったりするのですが、手織りの布の値段はほとんど材料費と人件費ですから、やはり帯1本でも何十万とかかります。」


 手づくりの物に対して支払うお金というのは、素材の費用や作り手の技術だけでなく、そこにかけた作り手の時間、あるいは人生に対する対価でもあるのだと、そのとき改めて実感しました。


 


 池田敦さん2


織物の世界から地酒の世界へ


 2011年4月、雇用期間が満了してフリーの立場になった池田さん。おみやげ物のデザインなどKibiso関係の仕事などをもらい制作を続けますが、収入は不安定で生活のために他の仕事をする必要性を感じていました。


 そこへ声をかけてくださったのが佐野屋の佐野洋一さんでした。2012年6月に地酒専門Barを開店させる準備をすすめていた佐野さんは、池田さんにお店をやらないかと誘います。


「鶴岡に来た頃に出来た友人がすごくお酒の好きな方で、その方から色々と日本酒のことを教えてもらい日本酒に興味を持つようになりました。その方と佐藤天哉さんからの紹介で、佐野さんと知り合いました。


 佐野さんから地酒Barを開店するから手伝ってくれないかとお話をいただいたときは、それをやるために鶴岡に来たわけではないので、正直躊躇しました。それでも経済的な問題もありましたから、従業員として地酒Barのお手伝いを引き受けました。ところが様々な事情があり、今は店長としてお店に立っています。」


 自分の人生の中でまさか日本酒を専門に提供するBarの店長をするとは夢にも思わなかった、と笑う池田さん。飲食店での就業経験はありましたが、雇われるだけの身ではなく店長として責任を持ってほとんど一人でお店を回すことは、やらされる仕事と違ってとても勉強になったと語ります。


「お店には佐野さんの繋がりで来て下さる常連さんや、常連さんが連れてきてくださる県外の方、日本酒にあまり興味を持っていない方など幅広く飲みに来て下さいます。お話することは日本酒の専門的なことから個人的なことまで様々です。経験も長く知識の深い佐野さんから教えていただくことをそのまま紹介することもありますが、味や風味などは自分が感じたことを素直にお客さんに紹介することが多いですね。常に心がけていることは、失礼のないようにしたいということです。」


 池田さんの接客は良い意味で日本酒の知識を語りすぎることもなく、押し付けるところがいっさいありません。誠実で穏やかな池田さんからは、お客さんに自由にお酒を選んで楽しく飲んで帰ってほしい。そんな気遣いを感じます。


「将来的にはもちろん、この土地で繊維関係の仕事をやっていきたいと思っています。もう少し自信ができれば色々と自らしかけていくこともできると思うんですけど、もう少し技術なども勉強したいですね。それで暮らしていくのは難しいこともよくわかっているのですが、それでも人の繋がりを大切にして、その道に進んでいきたいと思っています。」


 池田さんの言葉から、職人としての気品を感じます。自分を高めて自分の納得する作品を世に送り出したいと、彼が見ているのはずっと高いところです。


 


 人生何があるかわからない。夢を追いながらいくつもの壁を乗り越えて、時に横道にそれたり逆戻りをしながら懸命に進んでいくものだと実感しています。無駄なことなどひとつとしてなく、ひとつひとつが自分の中に蓄積されて、人間としての幅を広げ、その人をかたちづくっていくのだと思います。


 ひょんな出会いから奥深い地酒の世界を知ってしまった池田さん、今後制作される織物にどのような影響を与えることになるのか、楽しみでなりません。

▲PageTop

#030 「食の都庄内」を、自分たちの世代で受け継いで、繋いでいきたい イタリアンレストラン・アルケッチァーノ 西田淳之介さん 2013.2.5

Interviews

 


 西田淳之介さん 写真5


庄内イタリアン・Al che cciano(アルケッチァーノ)を支える若手シェフ


 山形県・庄内地方の自然環境や食材の豊かさを全国に知らしめるきっかけとなった、イタリアンレストラン・Al che cciano(アルケッチァーノ)。


 その土地で代々育てられてきた在来作物や旬の食材を個性豊かに料理したオーナーシェフの奥田政行さんは、料理人としてだけでなく地域資源の新しい価値の発掘やその再生に大きな影響を与えたことから注目を集め、これまで幾度となくテレビや新聞等のマスコミから取り上げられてきました。お店はその料理を一度味わおうと全国からやってくるお客様や関係者で賑わい、奥田さんには同じように地域課題を抱えた地方の自治体等からの講演依頼が絶えません。


 今や山形を代表するレストランとなったアルケッチァーノで、2010年から料理長を任されている西田淳之介さん。西田さんは1979年宮城県気仙沼市生まれ。高校を卒業するまで同市で過ごし、卒業後は仙台へ出てイタリアンを中心に修行を重ね、今から5年前に当時勤めていたレストランを通して奥田シェフと出逢い、アルケッチァーノでの研修の機会を得ます。そこで見た奥田シェフの料理と食への情熱に感銘を受けた西田さんは、この土地とこの人のもとで料理人生を送ろうと決心し、鶴岡へ移り住みました。


 


気仙沼から鶴岡へ―絶対条件は、海のある場所


  全国有数の漁業の町・宮城県の北東端に位置する気仙沼市に生まれ、幼少の頃から海のある生活に慣れ親しんできた西田さん。


「本当に海の目の前で育ちました。両親は漁業関係の仕事に就いていた訳ではないのですが、幼い頃から当然のように母が台所で魚を捌く姿を目にし、食卓には様々な魚料理が並んでいて、食生活は豊かでしたね。そうした環境の中で自然と興味が料理に向いたんだと思います」。


 それでも真剣に料理で生きていこうと決意したのは、24歳頃だったと思うと振り返る西田さん。そして奥田シェフとの出会いから、太平洋側から日本海側の庄内へとやってきます。


「庄内には、それまでまったく興味がありませんでした。山形は隣の県なので内陸部まで足を伸ばすことはありましたけど、山を越えて庄内に行くということはありませんでした。庄内がどんなところなのかイメージもありませんでしたし、まさかここに来るとも思いませんでしたね。」


 そんな西田さんの心を動かしたのは、奥田シェフの存在のほかに、幼い頃から慣れ親しんできた海の存在がありました。


「もともと自分の絶対条件として、海が近いところでなければ料理はできないと思っていました。ここへ来てみたら海はあるし、山もある。それまでに出逢ったことのないスタイルを持つシェフもいる。自分が探していたのはこの場所だと思いました。


 もちろん太平洋側と日本海側では当然魚の種類も違います、太平洋側の魚はカツオとかマグロとか、どちらかというと醤油が合うような油っぽい魚が多いんですよね。日本海側は白身の魚が多くて鮮度も高いというか、その違いも面白いと感じました。ここへ来たのは庄内の海に惹かれたんですね、海が大好きなんです」。


 ほとんど休みのない忙しい毎日の中でも、仕入先や市場で魚を見ているときはとても楽しいと語る西田さん。少年のように無邪気に語ってくださる姿を見ていると、その気持ちがよく伝わってきます。


 


 気仙沼と聞いて多くの方は、3.11の震災が頭を過ぎるのではないでしょうか。海のすぐ傍の西田さんの実家は、あの日三陸を襲った大津波によって一瞬にして姿形をなくしました。そんな凄惨な状況の中でしたが、ご両親は奇跡的に無事でした。


「震災があってすぐ、あぁ家はダメだなと思いました。帰る場所がなくなってしまったことは悲しいと思いましたが、もともとあまり物に執着しないほうなのでそこまでショックではありませんでした。それより何より両親が生きていてくれたことが本当に救いでした。」


 西田さんはその足で現地に入り手探りで両親を探し、震災から5日目にしてようやく無事を確認できました。両親を鶴岡に連れ帰った後も、何度も被災地へ足を運んで炊き出しを行っています。


 



庄内という土地で、料理をすること


 料理長を務めて約2年、その間に多くの雑誌やテレビ撮影をこなしてきた西田さん。最初は戸惑いやプレッシャーもあったそうですが、今はせっかく頂いたチャンスだからと楽しみながら取り組んでいるそうです。庄内で料理をすることの面白さや難しさは、どういったところから感じるのでしょうか。


「今や料理人は、料理だけでは駄目なんですよね。美味しい料理を提供するのは当たり前で、それプラス何かがなければ人の関心はひけないと言いますか。奥田シェフはそれが在来作物とか生産者とかだったと思うのですが、そうした何かが必要だと思います。


 やっぱり人だと思うんです、生産者だけではなく、全くの異業種の方とか、色んな人と接して繋がっていかないといけないと思います。でも最初はそれが大変でした、太平洋側で育った自分には、こちらの人々の気質を理解するのに時間がかかりました。物事をはっきり言っていただけないこととか、目には見えないしがらみとか、苦労しましたね。今はようやく慣れてきましたけれど。


 でも、ゆっくり深く付き合えば、心からわかり合えたり家族のように親身になって付き合えたりする人たちなんですね。庄内は人と人との繋がりがとても密なところだと感じます。ここならではの面白さですね」。


 生産者や料理人、取引先、その他の関係者が繋がって生みだされる庄内人の絆には、都会にある飲食店では考えられないような強さがあるように思います。そうした繋がりから新しい道が拓けたりするような奇跡は、ここならではの面白さなのかもしれません。


「あと、太平洋側にいた頃は、四季の変化を正直そこまで感じなかったですね。同じ東北でも冬はそこまで雪は降らなかったり、太陽も顔を出したりするんですよね。


 気温の変化はありますが、目で見る変化というのがあまりないんですよ。ここの冬はどんよりと曇った空が続いて晴れ間が見えることなんて稀だし、雪もいっぱい降りますよね。冬はひたすら我慢です。だから春がとても楽しみなんでしょうね。春になって雪が融けて、山の斜面に山菜が芽吹きだすと、とても嬉しいんです。どんな料理をつくろうか考えるとわくわくします。」


 庄内の多様に変化する季節に鍛えられた感性が、お皿の上で豊かに発揮されている。西田さんの料理を思い浮かべながら、その背景にあるドラマを知った瞬間でした。


 


 


冬にこそできる、地元庄内での取り組みがあるのではないだろうか


 2013年1月29日、地元の若手農家が育てた農作物を、アルケッチァーノの料理長・西田さんと酒田のフレンチレストランNicoのシェフ・太田舟二さんが料理し、生産者と一般の消費者が楽しむ「庄内の食を楽しむ会 若手農家×若手シェフ(主催:庄内若手農家ネットワーク)」という催しがアルケッチァーノで行われました。


 地元の農家さんの農作物をつかった料理は以前から得意とするところですが、若手のシェフの方との共演は初めてだったという西田さん。イタリアンとフレンチという異なるジャンルでのコラボレーションはもちろんのこと、Facebook というSNSを中心としたイベント告知により、普段いらっしゃらないようなお客様がたくさん来場したことも大変刺激になったそうです。庄内でこうした面白い取り組みが出来るんだということを実感し、本当にやってよかったと西田さんは振り返っています。 


「自分はこの土地にいて庄内を盛り上げることをやっていきたいと思っているんですが、そのためにももっと異業種の方とも知り合って、関わって、色々なことをやっていけたらと思っています。だから先日の若手農家さんや太田シェフとのイベントはとても良かったです、あんなにたくさんの人に来ていただけたことにも驚きました。


 やってみて思ったんですけど、冬の間だからこそできるというところはあると思いました。春になればお店も忙しくなるし、農家さんもなかなか自由が利かなくなります。冬の間の動きが鈍くなったときだからこそできる、地元での動きがあるんじゃないかと。実は色々大変なこともあったんですが、やってみないとわからないし、やらないと何も始まらないと思いましたね。来年はさらに色々しかけていけたらと考えています。」


 雪にじっと閉じ込められる季節があるこの土地だからこそ、出来る動きがあるのではという西田さんの言葉に強く共感しました。


 春を待ちわびる時間でじっくりと、足元を見つめなおし、周囲との繋がりを確認するような大切な時間にできたなら。


食の都庄内を、自分たちの世代で受け継いで、繋いでいきたい


 最後には、今後の夢を聞かせていただきました。


「今まで庄内を引っ張ってきてくれた奥田シェフらの次の世代、例えば太田舟二シェフのような二代目の世代の方たちと一緒に、上の世代とはまた違った取り組みをしながら庄内を盛り上げていきたいですね。人口18万人の町ながら、世界の料理界をリードしているスペインのサン・セバスチャンのような町に、庄内をしていけたら良いと思っています。


 そのためにも僕らの世代がまとまって、行動を起こしていかなくちゃならないと思っています。自分はその力になりたいですね。そして自分たちもここ10年くらいで形にして、次の世代に受け継いでいかないといけないと思っています」。


 在来作物の種を受け継ぐように、今せっかく芽生えたこの動きを、絶やさずに次の世代に繋いでいきたいという想い。


 アルケッチァーノといえば、在来作物をつかったお料理や奥田シェフを思い浮かべる方が多いでしょう。でも実はそれだけでなく、奥田さんの背中を追いかけて日々奮闘する、西田さんを始めとしたスタッフの方々がいらっしゃいます。北は北海道から南は沖縄まで、様々な地域から庄内に興味関心を持ってやってきています。


 そうした皆さんと気軽にコミュニケーションをとり、それぞれのドラマや想いに耳を傾ける楽しみがこのお店にはあるのではないでしょうか。きっと庄内の良さに改めて気がつかせてくれたり、お料理をより美味しくしてくれるような素敵な発見があると思います。


☆ヤマガタ未来ラボ 掲載ページリンク

▲PageTop

#027 クモの糸の実用化を目指す鶴岡市のベンチャー企業 スパイバー株式会社・村田真也さん 2012.12.11

Interviews


スパイバー株式会社―夢の繊維「クモの糸」の繊維化に、世界で始めて成功


山形県鶴岡市に、最先端のバイオテクノロジーを駆使して世界をリードしているベンチャー企業が存在することを、ご存知でしょうか。


あのNASAも開発に取り組むも、その難易度の高さから開発を断念したと言われる夢の繊維、「クモの糸」。そのクモの糸の人口合成と繊維化に世界で初めて成功し、現在実用化に向けて奮闘中のスパイバー株式会社は、鶴岡市の先端研究産業支援センターの中にあります。


スパイバーとは、「スパイダー(Spider:蜘蛛)」と「ファイバー(Fiber:繊維)」を組み合わせた造語で、2007年に慶應義塾大学・冨田勝研究室から独立したこのベンチャー企業は、現在従業員約30名、平均年齢も20歳後半と、若くてエネルギッシュな人たちが集まっています。


そんなスパイバーで、糸つくる紡糸の技術の開発や紡糸機械の設計を担当している、村田真也さん。


村田さんは、1984年長野県生まれの28歳。小学生の頃に神奈川県横浜市に転居し、2003年に慶應義塾大学・環境情報学部に入学します。湘南藤沢キャンパス(SFC)に通い神経細胞のシミュレーションや遺伝子の保存性をテーマに研究を行いながら、入室していた冨田研究室でスパイバーを立ち上げた関山和秀さん(現:代表取締役)や菅原潤一さん(現:取締役副社長)らと出会います。


修士課程を修了した2009年、金融機関向けのシステム開発を行う企業に就職します。証券会社向けのシステム関連部署での勤務を経て1年後に退職し、2010年5月にスパイバー社への入社とともに、鶴岡市に移り住みました。


 



 


夢の繊維「クモの糸」で、脱石油と持続可能な世界への貢献を目指す


クモの糸が夢の繊維と呼ばれる所以は、鉄鋼といった他の素材に比べて強くて伸びるという特性があり、衝撃の吸収性がずば抜けて高く、既存する素材の中では最高の強靭さを有するからだそうです。例えば直径が1cmのクモの糸があればジャンボ機を捕らえることができるといわれ、防弾チョッキに使用されている繊維と同等かそれ以上の強度を備えていることも明らかになっています。


クモの糸の優位性はそれだけでにとどまらず、シルクと同じようにたんぱく質からつくられることも、次世代の繊維を考えるうえでとても大切であると村田さんは語ります。


「私たちが普段着ている服や、世の中で使用されている材料素材などは、石油からつくられているものがほとんどです。そもそも石油がなくなってしまうとそいうった素材がつくれなくなってしまうということもありますし、石油由来のものは分解しにくく、土に埋めても分解されないんですね。石油資源の枯渇と廃棄時のコストや環境負荷といった問題を解決するために、生物由来の新しい素材を提供したいと私たちは考えています。」


スパイバーでは遺伝子工学と発酵技術を用いて、クモの遺伝子からクモの糸を合成しています。遺伝子工学というとクリーンな研究室で難しいことをしていることを想像しますが、実際には山に分け入り草木を掻き分けながら、大量のクモを捕まえてくるということもしたそうです。頭だけではなく体を動かして取り組む姿勢が、この若い会社の根源にあるように感じます。


 



 


地元鶴岡の企業や工業専門学校とも連携し、世界に挑む


クモの糸の実用化にあたっては、言うまでもなく最先端の設備や高度な技術が必要でしょう。村田さんが担当する糸を紡ぐ機械の開発は、実は地元鶴岡の企業と連携して行っています。それほど鶴岡の技術レベルは高く、また、松ヶ丘開墾場の絹織物産業に代表されるように、昔からの紡糸の技術もとても参考になるそうです。


「鶴岡はiPadの部品などをつくる企業もありますし、金属加工などの技術レベルは高い水準にあります。繊維をつくる技術も高く、繊維業界でリタイアされた方も多くいらっしゃるので、いろいろなアドバイスを頂いて取り組んでいます。


糸をつくるという技術というところでは、少なくともスパイバーが最先端の技術を有しています。スパイバー以外にも、クモの糸のタンパク質を合成できている研究グループはありますが、大量の糸を作ることができているのはスパイバーだけだと思います。」


世界で戦う技術の開発に地元鶴岡の企業が関わっているということに、大変驚きました。


また、スパイバーは鶴岡工業高等専門学校とも関わりがあり、クモの糸が学生の研究テーマになっていたり、教授と共同研究を行うこともあるそうです。村田さんも時には足を運び、実験装置等の使用をさせてもらっています。


「鶴岡工業高等専門学校の学生さんは、とてもしっかりしていますね。そこらへんの大学生よりちゃんと勉強しているなと思いますよ(笑)。研究発表の場にお邪魔したこともありますが、質疑応答もしっかりとした受け答えをしていて、とても感心しました。」


世界の技術を牽引する企業の研究者の方から、こうして地元の学校や学生が褒めてもらえるということも、とても誇らしいことではないでしょうか。


 



体を動かして美味しいものを食べながらでないと、良いアイディアは生まれない。


庄内という、都会を離れた環境で研究をすることについて、どのように感じているのでしょうか。


「真面目に研究をしようと思うと、こうした静かな環境のほうがじっくり取り組めますし、変にせかせかしなくていいところが良いですね。自然の中でリフレッシュをしながら体を動かして美味しいものを食べながら出ないと、良いアイディアは生まれないと冨田先生が言っているんですが、それを体感できるところだと思います。


自分はフットサルもするんですが、都会と違って安くコートを借りられますし、順番待ちもなく比較的簡単に利用できる環境もありがたいです。山も海も近いので、冬はスノーボードをしたり、夏は海で泳いだりもします。


あと、季節感を感じながら生きていられるところもいいですね、田んぼを眺めれば田植えの時期だなぁ、稲刈りが始まったなぁと思いますし、行きつけのお店の方からサクランボとか梨とか、旬の果物をもらうんですよ。自分は小学校2年生まで鶴岡よりもずっと田舎の長野県の村で過ごしたのですが、その頃の風景や気持ちが思い起こされるようなこともありますね。


あとは、人と人の距離が近いところも良いですね。お店の方と気軽に会話ができたり、ものを頂いたりします。こういったことは都会ではまず考えられないことではないでしょうか。」


都会にいたら話かけることがないような方にも、つい話しかけてしまうような、地方の力。自然と肩の力が抜けているような感覚を覚えます。そして何にでも貨幣価値がつきまとう今の時代、お店のおばちゃんから持っていけ~と差し出されるものから伝わる温かさに、素直に喜びを感じた経験を持つ方も少なくないでしょう。


 



 


日本の若者は元気がないといわれるけれど、そう言われているところに風穴をあけたい。


大企業に一度入社したものの、違和感を感じてベンチャー企業へ転職をした村田さん。安定や好待遇を捨ててでも、成し遂げたいと思うことはどんなことでしょうか。


「大企業に一度入社したことは、良かったと思っています。最初からスパイバーに入っていたら大企業のことは知らなかったですし、大企業でないとできない大きなこともたくさんあるのでとても勉強になりました。でも、安定志向で今までどおりのことをやっていけば、間違いなく日本の経済は右肩下がりになります。新しい事業をおこしていく必要があります。


経済成長の長期停滞や人口の減少といった問題から将来に希望が見出せず、日本の若者は元気がないといわれますが、そういわれているところに風穴をあけたいですね。 


スパイバーという会社は、志がしっかりしている会社だと思います。世界が抱える課題を解決するために、自分たちは何をすべきかということを考えて、取り組んでいます。その一部としてクモの糸の開発があるわけです。誰かから言われたことをやるのではなくて、自分で課題を見つけて、誰も答えのわからないことに取り組むということは、難しいことではありますがとても充実感があります。


スパイバーでは会議もとても活発です。よくあるような、偉い人が話をして周りはそれを聞いて終わりということはなく、皆がばんばん意見を言い合います。相手がどのような立場にあっても気にせずに意見を言いますが、それはもちろんより良い方向性を探すためです。外部の方から会議に入ってもらうと、よく皆さんそこまで言い合いますね、と驚かれますが、それはとても自然でポジティブなことです。」


庄内は自然の豊かさや伝統文化・農文化などがよく称えられますが、科学技術の分野でもとても興味深い動きがあり、日本の未来を担う若い研究者たちがここ庄内で懸命に取り組んでいます。


最大の目標は「スパイバーを通じて社会に貢献すること」だと、瞳を輝かせながら語ってくださった村田さん。現状に希望を持てず無気力になるのではなく、前向きな思いで未来や目標を想像して、行動を起こしている若い研究者。


悲観的なことばかり言われる日本の将来ですが、村田さんのお話を伺っていると壮大なビジョンにわくわくします。スパイバーが目指す、社会への課題を解決するための画期的な技術改革と、GoogleやAppleといった企業と同様に世界へ名を馳せるような企業になるという夢が、叶う日も近いように思いました。


スパイバーの仲間たち

 


☆ヤマガタ未来ラボ 掲載ページリンク


▲PageTop

#023 北米横断から戻り、小さく見えた東京を離れ庄内へUターン。 阿部翼さん 2012.10.30

Interviews



北米を自分の足で横断した鶴岡出身のフォトグラファー
 現在はフリーのフォトグラファーとして、庄内地方を中心にフリーペーパーの表紙写真や企業の商品案内、出羽商工会刊行冊子の写真など幅広く撮影を行っている阿部翼さん。

 阿部翼さんは、1982年鶴岡市生まれ。美術の教師免許を持つ父親の影響で幼い頃から写真に親しみ、東京の写真専門学校を卒業後、フォトグラファーの世界へ。スタジオで機材の使い方や撮影についての基礎を習得した後、2年ほどロケカメラマンのアシスタントとしてフリーで活動しました。

 2011年6月にそれまでの仕事を全て辞め、自転車でのアメリカ横断に挑戦。68日間におよぶ旅を無事終えて日本に戻り、東京で再び撮影の仕事をする予定だったところを思い直して、2011年11月に鶴岡に帰郷しました。

 決して言葉数の多い方ではなく、一言一言を簡潔に、ゆっくりとお話される阿部さん。でも、本質を捉えようとする考え方と純粋な想いを内に秘めた方であることを、阿部さんのブログを拝見していると感じます。以下は2012年6月に鶴岡アートフォーラムで開催した展示会「Beautiful World」を終えた際のブログから引用したもの。アメリカ単独自転車横断の写真と日記の記録を展示会には、5日間で約650人もの来場があったそうです。

 

『裸の自分を自らさらけ出して、ただの赤っ恥を掻くだけなんじゃないか。

自己満足で終わって、見た人の記憶にも残らない、

ただの「写真展」になるんじゃないか?

色んな事が頭をよぎりましたが、

「アメリカでみんなからもらった大切な物を、今度は僕が誰かに与える事が出来るかもしれない。」

この約束だけはしっかり守らなければいけない。

たった一人でも自分と同じ悩みを持っていた人がいたとして、

そのたった一人の人から何か言葉をもらえれば、

大成功ということにしよう。

それがこの写真展のスタートでした。』

(阿部翼さんブログより抜粋 http://abebeabebe.exblog.jp/15730384)

 そうした阿部さんの想いの込められた展示会で、胸を熱くした人は少なくないでしょう。もちろん私もその中の一人です。





車でも、電車でも、バスでもなく、自転車でのアメリカ横断。
 アメリカ西部の都市、ロサンゼルスからアメリカ入りし、東海岸のニューヨークを終着点とした約6,459kmの型破りな旅。どうしてアメリカ、そして自転車だったのでしょうか。

「オーストラリアでもなく、ヨーロッパでもなく、アメリカだと直感で思いました。自転車を選んだのは、目的が、写真を撮ることだったからです。自転車だと、撮りたいと思ったときにすぐに止まって撮れる。あとは、自分の足で成し遂げたいと思う気持ちがありました。人でも、風景でも、自分がいいなぁと思う写真を、好きな写真だけを、撮ろうということだけ決めていました。」

 渡米して最初に立ちはだかったのは言葉の壁でした。

「何を言っているかわからないと自分もかえせなかったので、とにかく一生懸命聞くようにしました。たぶんこういったことを言っているんだろうなぁと思えれば、自分からも話せるというか。そうしているうちに、自然と遠くで話している声も注意して聞くようになりました。そうすると、他人に興味がわいてきました。最初のほうは、地域や人種によってなまりがひどい場合もあるし、あまり話しかけられたくなかったですね。でも今思えばもう少し英語を勉強しておいて、価値観や感情が分かち合えればもっと面白かっただろうなぁと思います。」

 そこにお互いの感情は確かに存在するのに、言葉という道具がうまく使えないためにそれを伝えられないことのもどかしさというのは、きっと多くの人が体験したことのあることではないでしょうか。

「でも、わからないときはわかったふりをしていました(笑)。結局気持ちが通じてさえいれば、言葉なんか必要ないようにも思いました。」





朝起きて、あぁ今日も生きていると思える。人や自然に生かされている。
 渡米する1年くらい前からそれまでにしていた仕事や自分の写真に対して疑問を持ち始め、この旅を決意した阿部さん。

「小学校の頃は好きで写真を撮っていたのに、仕事となると好きじゃない写真も当然撮らなくちゃなりませんでした。自分が良しと思わない写真を使ったり、自分じゃなくてもいいような仕事をしなくちゃいけないこともありました。そうした中で、自分の先が見えてしまったというか、一度今までの写真や仕事を全て捨ててでもリセットをかけないとだめだと思い、考えた末にアメリカ横断を決意しました。これまで経験をしたことのないことに挑戦して、自分の小さかった殻を破りたいと考えました。」

 容赦のない日差し、広大で乾いた大地がどこまでも広がるアメリカを見たことのある人ならば、あの土地に生身の人間が挑むことの危うさは十分に想像ができると思います。それでも挑んだアメリカ横断は想像していたとおり過酷なもので、アメリカの大自然の中で何度も命の危機にさらされました。

 また自転車での移動時間は長く、体力は熾烈を極める反面、頭の中では常に自分のこと考えていたそうです。

「車も通らず、風も吹かないようなところを自転車で走っていると、自分の呼吸の音しか聞こえないことがありました。目の前に広がる変化のない景色とともに自分の呼吸の音だけを聞いていると、真空状態のような、どこにいるのかわからないような、なんだろうこの惑星は、みたいなことを感じるときはありましたね。

 ペダルを漕いでいるときは、とにかく自分のことを考えるしかないんです。今までの自分を反省したりとか、これから何がしたいとか、洗いざらい考えました。

 旅を終えて変わったと思うことは、1日1日を大切に過ごそうと思うようになったことでしょうか。死んでもおかしくないことが何回もあったので、人や自然に生かされているということを実感しました。一期一会ではないけれど、今このときに出来ることを、全力でやっていこうと思うようになりました。

 そこでたどり着いたのは、生きているだけで幸せだということでした。人間自分の足元をみないというか、生きていることがどれだけ幸せなことか、なかなか気がつきません。」

 自分を極限まで見つめた阿部さんの言葉には、重みだけではなくて突き抜けた強さがあります。





北米横断から戻り、小さく感じた東京と、面白く見えた庄内。
 阿部さんは当初、アメリカから帰ってきたらまた東京で仕事をしようと思っていました。でも、アメリカ横断という大仕事をやり遂げた阿部さんの目には、東京という街が小さく見えたそうです。

「アメリカという国を見た後、東京という街が小さくみえました。最終目的地だったニューヨークの喧噪やそこで生きる個性豊かな人々を見たからかもしれません。ニューヨークは面白い街でした。街を歩いているだけで、いつも発見がありました。

 例えばアメリカの人たちは、フランクというか、誰でもすぐに話しかけてくるんですよね。色んな人が自分に話しかけてきました。東京で同じことをしたら警戒されますよね。でもそれが普通だというか。東京では電車に乗っていても他人に興味がないのが当たり前だけど、アメリカでは色々なところで声をかけられますよね。優しさなのかおせっかいなのかわからないんですけど。

 旅を終えてすぐ、無事に戻った報告を家族にするために、鶴岡に帰りました。そこで見た庄内が、自分には面白く映りました。人のつながりとか、美しい景色とか、自然が身近なところとか。」

 そして鶴岡に戻ることを決意した阿部さん。鶴岡では東京で培ったフォトグラファーとしての経験と技術を活かして幅広く活動をされています。鶴岡で仕事をしていて良いと思うところは、すぐ近くに息抜きのできる場所がたくさんあるところだそうです。

「自分はスノーボードもサーフィンも登山もするので、ちょっと時間があったら遊びに行ける、というのはとても贅沢だなぁと思います。めしも旨いし、ほんとここはリゾート地だと思います。これほど自然を遊び場にできるところって、あまりないです。季節の変化を感じられるというのもとても良いですね。

 あと、人と人のつながりがおもしろいですね。取材に行ったお店の主人が父の知り合いだったりとか。この間もレストランの撮影に行ったんですけど、そこの奥さんを一目見てどこかで見たことあるなぁと思っていたんです。そしたらなんと、小学校の頃の先生だったんですよ。」

 自分が生きてきた地域にちりばめられた自然の素晴らしさや人とのつながりに、改めて気づく日々。庄内は何も無い、それが良いと思っていた。でも、本当に何もないのは都会のほうかもしれない。そうブログにつづる阿部さんの言葉に、共感を覚えます。





若い人はどんどん外に出て、色々な土地を見てくるといいと思います。
 都会に憧れて地元を離れる若い人たちに対しては、どんどん出て行ったらいいと阿部さんは言います。

「若い人はどんどん出て行ったらいいと思いますよ。東京だけじゃなくて世界も見て、自分の居場所を探したらいいと思います。自分はたまたま地元に帰ってきたけれど、色々な土地を見るのは若いうちにしか出来ないことなので、どんどん行ったほうがいいと思います。

 そうしたほうが考え方に広がりが出るというか、上の世代はがちがちに頭が固くなっているところがあると思うので、若い人たちが経験をつんで戻ってくることがあれば活動の幅も広がるし、地域の発展にもつながるんじゃないかと思います。」

 最後に、これからどんなことをしていきたいですかと聞いたところ、自然を相手に遊ぶスポーツをもっともっと楽しんでいきたいと阿部さん。

「やっぱりそれが、この土地ならではの最高の贅沢だと思うんです。海も山も川もあって、そこで自由に自然に触れ合えたり、自然で遊ぶことができる。子供たちに自然との遊び方を教えるようなこともしたいです。それに、例えば湯の浜はサーフィン発祥の地だったりとか、面白い歴史的な背景もあるところなので、仲間たちと組んでもっとアピールしていけたらと思っています。」



 その瞳で確かに見た、阿部さんの人生の一瞬を切り取った写真たち。それらを眺めていると、阿部さんのその時の嬉しさや辛さが伝わってきます。山形という土地を楽しみながら、自らのスタイルを確立してきたいと語る阿部さんの写真は、これからもきっと素晴らしい景色だけではなくて、思いと体験を、私たちにわけてくれることでしょう。


▲PageTop

#019 地域で何かを具体的に動かしていく。それが今、自分にとって一番やらなくちゃいけない「表現」。 成瀬正憲さん 2012.09.25

Interviews


修験の地、羽黒町で活きる岐阜県出身の若き山伏。
 山形県鶴岡市、羽黒地区。東北随一の修験の霊場と言われる出羽三山の表玄関として、また、国宝五重塔をはじめ重要文化財や史跡、歴史的文化財が数多く存在する類稀な場所として、広く世間に知られています。

 2011年10月には鶴岡市が主体となり、フランス・パリとハンガリー・ブタペストにて「出羽三山の山伏文化と精進料理」を紹介するプロジェクトが行われました。成瀬正憲さんは羽黒町観光協会の一員として、また羽黒の山伏としてこのプロジェクトに参加し、実際に出羽三山の文化を世界へ発信されました。

 成瀬正憲さんは、1980年生まれ岐阜県出身。高校卒業まで岐阜で暮らし、その後アニメーションを学びにカナダへ留学し、帰国後は東京の大学で哲学や民俗学を専攻し、福井で地域振興の仕事に携わった後、2009年に鶴岡市羽黒町に移住しました。

 現在は羽黒町観光協会に籍を置きながら、修験道体験のコーディネーターや出羽三山精進料理プロジェクトをはじめとした多くのプロジェクトに携わり、地域と深く関わりながら独自の「表現」を実現されようとしています。




成瀬さんのご自宅、藁細工たち。


アニメーション、哲学、地域文化、山伏。根底には、「魂」の表現。
 高校を卒業後、アニメーションでアニミズムを表現することを志し、海外の芸術系の学校への進学を目指した成瀬さん。

(注:アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。)

「われわれ人間は人間として、重力を感じて時空間を認識しているけれど、例えばモンシロチョウだったらどういう世界を見ているのか、野山の動物、植物だったらどうかとか、そういった多角的な視点で世界を見たときに、人間が自然界で生きるときに大切なことが見えるんじゃないかと思ったんです。そして、そうした世界をアニメーションを使って表現してみたいと思っていました。」

 当時、試験科目のひとつだった小論文を書き上げるために、様々な本を読み漁っていた成瀬さん。その時に出逢った一冊の本で、山伏のことを知りました。

「これは面白いなぁと興味を持って読んでいた本に、山伏のことが書いてありました。モントリオールの大学に入学してアニメーションを学びながらも、なんだか気になるなぁと思っていて、日本に帰国してからあれはいったい誰が書いた本だったかを調べたんですね。そしたらそれが中沢新一さんという方の、『哲学の東北』という本だったということを知りました。」

 アニメーションを学びに行ったモントリオールでは、様々なところから来た多様なアイデンティティを持つ人々と触れ、自分という存在を見つめ直すきっかけとなったそう。

「例えばフランスで生まれ育ってきた人は、幼いころからルーブル美術館だとかに行って教科書に載っているような絵画に触れる機会がたくさんあるわけですよね。そういった人たちと同じ文脈で戦っても、勝てるはずがないと思いました。

 そう考えたときに、土俵自体を変える必要があると思いました。それまで自分がどういう土地で生きてきて、どういうものに根ざした感性を培ってきて、さらにはどのようにそれを展開していけば表現者としてやっていけるのか、ということを、考えないといけないな。日本という列島に培われてきた本当に奥のほうにあるものに身を浸してみないと、駄目だなと。」

 この気づきから、成瀬さんはアートの世界から哲学の世界、さらには地域文化の世界へと、その表現の場所を移していくことになります。




山伏姿で出羽三山文化と精進料理をPR。フランスにて。


地域文化に身を浸し、そこから立ち上がる世界観を体感できる―修験道
 20歳の頃、山伏の存在を知るきっかけとなった中沢新一氏が当時教授をしていた大学へ入学した成瀬さん。大学在学中には、日本各地で継承されてきた地域のお祭りを見てまわったそうです。

「西は沖縄から東は青森まで、いろんなところへお祭りを見にいきました。お祭りというのは、地域のコミュニティが築きあげてきた世界観の一種の表現だから、その地域が何を大切にしているのかがすごくよくわかります。ただ、僕たちはお祭りに参加している人たちが、見ているものだとか感じていることだとかは、わからないんですよね。あくまでも観客の一人です。そこからもう一歩踏み込んでみたい、という想いがありました。」

 そうした考えから舞踏といった身体表現にも興味を持ち、一時期は恐山などを拠点に活動する舞踏家たちの裏方として、群馬や秋田へまわりながら舞踏の勉強もされたそうです。

「でも、どこか違うなぁという気がしました。そこで山伏だったんですね。山伏も、白装束を着て自身を死者ととらえて、山をあの世だとか胎内とかに見立てて、胎児として成長を遂げて生まれ変わって帰ってきますよね。自らが身を投じて、その世界観を体感する。そこにすごく関心がありました。」

 4年次のゼミ合宿で、中沢新一氏と古いつきあいのある羽黒の宿坊・大聖坊の山伏、星野文紘氏の導きのもと、初めて修験道を体験したそうです。翌年には羽黒修験の最も重要な修行とされている「秋の峰入り」に入り、山伏となりました。その後はゼミ合宿の一環としてだけではなく、一般の人が参加できるような修験道体験を企画・運営していくようになります。

「文化に触れることは出来ても、実際に文化に身を浸したり、そこから立ち上がってくるものを体感できる場というのはそうは無いから続ける必要がある。そう思い修験道体験の企画を続けていました。」

 その地域の人々がきっと何百年も昔から見てきた景色を見て、そこで行われてきたことを体感する。それは地域に伝わる文化の根源に存在する魂の数々に、出逢うことでもあるのでしょう。




成瀬さんのご自宅。祭壇。


地域で何かを具体的に動かしていくという「表現」。
 大学院を卒業し、これまでの活動を事業体にできないかと考えていた27歳のとき、福井県で環境教育や地域づくりに携わる会社を紹介され、そこで2年間、地域づくりの修行をしたと語る成瀬さん。その間も1ヶ月に一度のペースで羽黒を訪ね、地域の人々との会話を重ねていきます。

 出羽三山や宿坊が置かれている現状は厳しく、このままでは大切な文化が立ち行かなくなるという危機感を共有し、宿坊や出羽三山神社、荒澤寺、都市から集めた有識者で「10年後の出羽三山を考える会」というシンポジウムも開催しました。

「そうした取り組みを進めていく中で、表現として何かをすると考えたときに、絵画や音楽、舞踏といったものではなくて、地域で何かを具体的に動かしていくことが、自分にとって今一番やらなきゃいけない表現なんじゃないかなと思いました。町おこしというのはひとつの表現活動として捉えることもできるんですよね。

 今の時代というのは、ある種の共同性というか、都市と地方の格差だとか、自然と人間との共存だとか、そういったものが問題になっていますよね。それを解決に向けて取り組んでいくということは、そのこと自体が表現といえるだろうと思います。」

 現実が動くということが、「表現」であること。単に芸術だけがアートではない、いえ、地域が変わっていくことそのものも、一種のアートだというこということを意味するのでしょう。成瀬さんのお話を聞きながら、心の底から納得してしまいました。 




成瀬さんが近所で採種した薬草たち。


地域で暮らす人たちが、その地域らしく暮らすことに意味がある
 出羽三山を中心とするこの地域には、貴重な文化がたくさん残っているといいます。この地域ならではの独特な形状をした蓑(みの)、オエという素材で編む草履、ぶどうの木の皮で作られるかごといった手仕事の文化。季節折々で楽しむ山菜やきのこなどの山の幸、薬草などの野の幸、海藻など海の幸を、その命を頂きながら共存するための食文化。そこには今もなお受け継がれる技術があり、蓄積されてきた知識があるといいます。

 成瀬さんはそういった文化の継承者のもとを訪ね、実際に作業を体験しながら彼らの話の聞き書きをする活動もしています。後継者のいない伝統文化を、いかに継承させていくか。金銭的な問題をいかに解決していくかということも、成瀬さんのテーマのひとつです。

「出羽三山が育んでいる自然の資源というのは、本当に素晴らしいものがあるんです。本来その土地の人たちは、その土地のもので生きていけることが理想だと思うのですが、そう簡単にはいかない現状があります。でもそれを、知恵を絞ってなんとか打開していきたいと思うんです。そして自分は、その橋渡しをしたい。」

 あくまで主体は地域の人たち。地域の人の声を聞き、想いを同調させて場づくりを行い、少しづつ丁寧に、現実を動かしていきます。

 今年6月に発足した「出羽三山精進料理プロジェクト」では、地域のつながりや協働が生まれたりと、既に様々な変化がありました。この10月には、山形市や東京でも出羽三山の精進料理イベントが実施されます。山形発ドキュメンタリー映画『よみがえりのレシピ』とのコラボレーションイベントも予定されています。

 地域が変わってゆくさまを、大きく描きながらまずは近いところからゆっくりとじっくりと、形にしていこうと心と体を尽くす表現者。東北随一の霊場、出羽三山。この土地はまた、素晴らしいアーティストを惹き付けたものだと、私は始終心打たれておりました。



▲PageTop

Menu

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

最新記事

プロフィール

今野 楊子

Author:今野 楊子
1983年9月。福島県は会津地方・喜多方市にてこの世に生を受け、その凡庸な人生の多くを神奈川県平塚市にて過ごしました。

大学を卒業後、東京都杉並区で暮らしながら丸の内の企業に勤務。2010年フランスのボーヌもしくはカナダのトロントに飛ぶ筈が、『庄内パラディーゾ』という書籍に出逢い、山形県の庄内地方は鶴岡市に来てしまいました。

 庄内では、羽黒地区にて畑しごと(たった500平米ですが)をしながら鶴岡市山王町で商店街活性化事業に1年間従事。
その後2012年4月から約1年、羽黒の日本酒蔵・竹の露酒造にお世話になり、主に貿易等の海外とのやりとりを担当。2012年10月にはニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスで行われた展示会へも参加し日本酒をPRして参りました。

現在は庄内の人や食に関する取材活動を続けています。

都会では感じ得なかった穏やかな毎日を過ごす日々、たくさんの出逢いを大事に1日1日を過ごしていきたいと思っています。

*****その他の活動*****
山形大学農学部認定
  やまがた在来作物案内人(2011年度認定)
鶴岡食文化女性リポーター(2011年度公認)

****主な執筆活動*****
・ヤマガタ未来ラボ 取材&執筆
記事一覧→https://mirailab.info/archives/author/sano/
・ふるさとの心を伝える「朝日人」編集&取材&執筆
info→http://kiraku-kai.com/asahijin/index.html
・TSUCUL(つくる)Editor
info→http://www.facebook.com/tsucul

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。